安楽寺 浄土真宗本願寺派 千葉山安楽寺
沿革 四国で最古の浄土真宗の寺
○安楽寺の歴史 戦国時代の阿波と本願寺 「安楽寺文書」を読み解く
   世界遺産の至宝 本願寺展 地域展示解説シートに依る
   執筆:徳島城博物館学芸員 須藤茂樹さん 資料提供:安楽寺・本願寺史料研究所

 足利義維を擁立して堺に公方府(堺幕府)を樹立した 陰の立役者、阿波の三好元長は、細川政元に扇動された 十万余の一向一揆によって自害を余儀なくされ、その子 三好千熊丸(後の長慶)は父の仇敵細川政元打倒を胸に 秘めつつも、やがて対立した政元と一向一揆の間を取 り持ちました。

 時代は下って永禄十一年(一五五八)秋に織田信長が 足利義昭を擁して上洛すると、畿内の政治地図はガラッ と変わりました。元亀元年(一五七〇)、大坂・石山本 願寺と信長との関係は悪化して天正八年(一五八〇)ま で十一年に及ぶ戦いが繰り広けられることになります。 将軍となった義昭を軸に北近江の浅井長政・越前朝倉 義景、そして本願寺や阿波の三好氏、遂には武田信玄 が信長に対抗しました。巨星信玄の死をきっかけに、 反信長包囲網は崩れていきます。しかし、天正四年 (一五七六)に義昭が備後のとも鞆(広島県福山市)に移って、 毛利氏を新たに味方につけることに成功すると、毛利 氏は水軍を遠征させ、信長の水軍を破って本願寺に兵 糧を運び入れました(第一次木津川合戦)。塩飽諸島を 押さえ瀬戸内海の制海権を収め、勢力を西国へと拡大 しようとする信長に対抗する意味もありました。一方、 阿波や畿内で活動する三好氏一族も重臣篠原長房が本 願寺の要請もあって畿内に兵を動かすなど反信長の立 場をとりました。  ところで、徳島県美馬市美馬町中山路、吉野川北岸 の河岸段丘上に干葉山妙音院安楽寺という浄土真宗本 願寺派に属するお寺があります。昔は天台宗に属し、 妙音院、あるいは真如寺と号したといわれていますが、 正元元年(一二五八)頃に下総の住人千葉彦太郎が入寺 し、以後浄土真宗に改め仏光寺派に属したと伝えられ ています。永正十二年(一五一五)の火災で郡里を離れ て麻植郡瀬詰村(吉野川市山川町)に移り、さらに讃岐 三豊郡財田(香川県三豊市)に転じて宝光寺を建てまし た。永正十七年(一五二〇)、三好千熊丸(元長または 長慶)の召還状によって郡里に帰住しました。門徒衆の 触頭として大きな力を待ったといわれています。阿波 では吉野川流域を中心に拡大していきます。安楽寺は、 江戸時代には阿波21、讃岐50、伊予5、土佐8の合計 84ケ寺の末寺を有し、四国の真宗寺院では最大の勢力 を誇りました。現在は能舞台を設置するなど文化の発 信拠点となっています。また、安楽寺周辺には県指定 名勝の四国最古の庭園を有する真言宗御室派願勝寺を はじめ数ケ寺がかたまっており、「寺町」として散策の 場となっています。  本願寺展(徳島展) 徳島市立徳島城博物館
 平成20(2008)年10月04日(土)から11月16日(日)に開催されました
○寺のはじまり
  仏教は、紀元前5世紀にインドのブッダ・ゴータマによって創始され、紀元6世紀に日本に伝わり、 7世紀には安楽寺の所在するこの地にも寺が営まれました。9世紀には天台宗と真言宗とが伝教大師最澄 と弘法大師空海によって開かれました。

  安楽寺の創立年次は明らかではありませんが、妙音院と称し天台宗に属していたといわれます。 その天台宗の時代の遺跡として、境内の西北隅に天台宗寺院の守護神「山王権現」の小祠があります。

  13世紀に親鸞聖人によって浄土真宗が開創され、安楽寺はその法流を受け継ぐことになります。

  安楽寺が天台宗から浄土真宗に改めたのは、寺伝によると正元元年(1259)のこととします。   それは上総(千葉県)の守護・千葉常隆の孫彦太郎が、宝治元年(1247)に娘婿の三浦泰村が 幕府の執権北条時頼と争い討たれたとき、彦太郎も時頼に攻められました。
  東国は親鸞聖人が多年にわたり教化され、浄土真宗が盛んな地でした。彦太郎は討ち手を逃れて、 この地方の真宗門徒の指導者であった真仏上人(親鸞聖人の高弟)のもとで出家したといわれます。

  そして正元元年に阿波(徳島県)の守護であった縁族(大おじ広常の女婿)の小笠原長清を頼って 阿波に来て、長清の世話で安楽寺に入ったということです。

  長清の子長房から梵鐘と寺領100貫文を寄進され、寺領はその後も、阿波の領主となった 細川・三好・蜂須賀の各大名から安堵され、安楽寺の経済的基盤になりました。

  14世紀に安楽寺は仏光寺(浄土真宗の一派)に属していましたが、15世紀に蓮如上人のとき、 本願寺の傘下に入りました。

  16世紀に入ると、永正12年(1515)に火災が起こり、伽藍・法宝物等ことごとく焼失 しました。寺はしばらく瀬詰村(徳島県麻植郡山川町瀬詰安楽寺)に移り、その後、讃岐財田(香川県 三豊郡財田町)の宝光寺に入りました。

  5年後の永正17年に、三好長慶の寺領安堵と召帰しの状によって、郡里の地に帰り寺を復興し、 ここを拠点に仏法の伝道につとめました。その結果、四国東部に教線をのばし、17世紀に安楽寺 の支配に属する寺は、阿波21、讃岐50、伊予5、土佐8の合計84ヶ寺に達しました。

○安楽寺 伽藍のうつりかわり
  安楽寺は北に讃岐山脈を背負い、南に吉野川をへだてて四国山地の霊峰剣山(1957メートル) をのぞむ景勝の地に位置します。境内は2000坪、周縁を塀でめぐらし、伽藍は南向きに 配置されています。
  伽藍のうつりかわりをみますと、永正12年(1515)の火災ののち復興した本堂は、次第に 傷みがはげしくなったので、元禄元年(1688)に再建しました。亨保13年(1728) に朱塗りの楼門(三門)を造り、それ以来「赤門寺」(あかもんでら)といわれました。 文化元年(1804)には庫裏を再建しました。

  近代に入り大正14年(1925)に書院(妙音閣)、昭和3年(1928)に慈光舎を を新築しました。昭和11年(1936)に本堂の屋根損傷を機に再建することになり、13年 (1938)に11間四面の御堂が完成しました。これと同時に新たに東西両門を設け、正面の 楼門を修理し、周壁を営繕しました。

  庫裏も200年近い歳月を経て損傷がはげしくなり、平成8年(1996)に庫裏・本堂との 取り次ぎの部屋、および慈光舎を撤去して、能舞台・茶室・図書室等を設けた客殿と庫裏を新築しました。
  これにより今後とも広く門戸を開放していますので多くの人々に一層慣れ親しんで 頂ければ幸甚です。

○浄土真宗 本願寺派 千葉山安楽寺 略年譜
  〒771-2105 徳島県美馬市美馬町宮西11
西 暦 和 暦  年  譜
1224元仁 元年親鸞聖人、浄土真宗を開く。
1259正元 元年天台宗から浄土真宗に改宗。
1515永正12年安楽寺焼ける。徳島県麻植郡瀬詰に移り
ゝゝ ゝゝ さらに讃岐財田に転ず。
1520永正17年三好長慶の召還により郡里へ帰住。
1570元亀 元年大坂石山本願寺へ兵糧を送る。
ゝゝ ゝゝ この年より本願寺、織田信長に攻められる。
1586天正14年安楽寺正宗、豊臣秀吉の京都大仏殿供養に出勤。
1595文禄 4年安楽寺正宗の子其宗、郡里常念寺を興す。
1609慶長14年安楽寺正宗、郡里西教寺を建て隠居。
1626寛永 3年「安楽寺四ヶ国末寺帳」作成。
1632寛永 9年安楽寺乗尊、将軍秀忠の葬儀に江戸に上る。
1637寛永14年藩主蜂須賀、寺有地75石の諸役を免許。
1728亨保13年朱塗りの山門を建てる。
1804文化 元年庫裏を建てる。
1925大正14年書院「妙音閣」を建てる。
1928昭和 3年慈光舎を新築。
1938昭和13年本堂を再建。
1995平成 7年脇町安楽寺本堂と会館・書院を建てる。
1996平成 8年客殿と庫裏を建てる。
○安楽寺歴代住職 平成20(2008)年12月現在
安楽寺 美馬町
  常重 −常頓 −常顕 −常円 −専長 −頓空
・・この間数代欠・・
−了願 −願証 −明宗 −正宗 −明空 −正尊
−順正 −乗尊 −妙順 −尊重 −隆超 −専岸
−超岸 −仁山 −知水 −胤亮 −融岸 −実道
−觴水 鵬雲 −寂雲 −隆範 −乗隆 −昭彦
  (安楽寺美馬町)
安楽寺 脇町
−−    鵬雲 −法城 −俊教 −乗隆 −昭彦
−恒乗
  (安楽寺脇町)