安楽寺 浄土真宗本願寺派 千葉山安楽寺
千葉乗隆の訃報 葬儀
美馬安楽寺 脇町安楽寺 平成20(2008)年5月27日(火)
 平成20(2008)年4月12日に死去しました住職千葉乗隆の葬儀は平成20(2008)年5月27日(火)に安楽寺 及び 脇町安楽寺にて門徒葬により執り行われました その式次第及び住職略歴は次の通りです
 なお 葬儀の模様は平成20(2008)年5月28日(水)付け朝日新聞朝刊徳島版に掲載されました


○住職千葉乗隆門徒葬式次第
  安楽寺 2008/05/27(火) 午後一時始
安楽寺第二十七世住職
  廣開院釈乗隆俗名千葉乗隆
葬儀式次第

一、喚鐘
一、開式の辞
一、達書伝達


一、ご門主ご代香
一、お裏方ご代拝
一、本願寺派総長焼香
一、諸僧入場着座
 キン二音
一、三奉請
一、導師焼香
一、導師表白
一、喪主焼香
一、門徒総代弔辞
一、龍谷大学長弔辞
一、美馬市長弔辞
一、門徒代表弔辞
一、五木寛之さんからのメッセージ
一、弔電奉読
 キン二音
一、読経 正信偈
 キン一音
 五劫思惟以降焼香
 キン一音
 短念仏
 キン一音
 念仏
 添引和讃二首
 結讃 願似此
 キン三音
一、御文章 白骨の章
一、お礼の言葉
一、諸僧退出
一、楽員退出
一、閉式の辞
一、一同退出
平成二十(2008)年五月二十七日

午後一時始
親族弔問者入場着座
喚鐘中楽員着座
葬儀委員長 総代 北岡秀二
総長      不二川公勝様
    副住職 千葉昭彦ヘ
     音取 楽
総務      出口湛龍様
総務      宮崎憲之様
総長      不二川公勝様
     止楽

     付け楽・鉢
     作相中
         本善寺様
   副住職 千葉昭彦
         真鍋五郎
         若原道昭様
         牧田 久様
元衆議院議員  三野優美
         太田信隆様
仏教研修会 吉田知弘


親族・弔間者・門徒他








    副住職 千葉昭彦
     音取・楽

総代      藤野正晴
           以上
○開式の辞
 葬儀委員長 北岡秀二 
開式の辞
 北岡秀二葬儀委員長  美馬安楽寺 2008/05/27   本日 ここに安楽寺門徒葬を執り行うに当たり 浄土真宗本願寺派総長をはじめ 県内外の多くの皆様方のご参列をいただき 誠にありがとうございます 葬儀委員長として安楽寺門徒・ご遺族一同に成り代わりまして 厚くお礼申し上げ 只今より 浄土真宗本願寺派千葉山安楽寺・第27世住職 廣開院釈乘隆さまの安楽寺門徒葬を執行致します

  乘隆先生は 大正14年5月4日 美馬町安楽寺にお生まれになり 地元脇町中学を経て 龍谷大学予科を卒業 昭和14年本願寺にて得度 17年には龍谷大学文学部史学科に入学されました 折りしもの戦渦の中 十八年十二月在学中に招集を受け 西部三三部隊に入隊 浜松陸軍飛行学校からの復員までの間に 龍谷大学を卒業 復員後の二十二年には 安楽寺副住職に就任されました その後 旧郡里町においては 社会教育委員・文化財保護委員・町史編集委員長等故郷に貢献いただき その間に龍谷大学研究科を卒業され 三十二年九月には乘隆先生の歴史学者としての大きな起点になりました

  本願寺史編纂所編纂委員にご就任 以来三十四年龍谷大学講師をはじめとして 四十五年文学部教授 四十八年文学部長 五十年には日本私立大学連盟理事 そして同年文学博士学位受領 それまでの実績を高く評価され五十八年から平成元年までの六年間龍谷大学長として大学運営に大きく貢献されました   学長ご勇退後は 平成元年十一月より現在に至るまで本願寺史料研究所所長としてご活躍されるかたわら 国際仏教文化協会理事長 浄土真宗教学研究所長 相愛学園理事長の職責を担われ その生涯を学究に捧げられたのであります

  又 昭和四十七年の安楽寺住職就任以来 折に触れては帰郷され 精力的に門徒との交流に勤められました 昭和五十八年には 本堂屋根大修復 平成八年の客殿・庫裡造営等と安楽寺の大事業も成し遂げたのであります

  私共にとりまして 先生のご活躍は我々門徒のみならず 郷土の誇りであり だまだ奥の深い暖かい教えを頂きたい矢先 四月十二日に天寿を全うされたのであります

 乘隆先生は 戦前戦後の混乱期を見事に生き抜かれ 強い信念を持って 学問求道の道を貫かれた方であり常に温厚にして実直 平易な言葉で門徒をお念仏のご縁に導いてくださいました 門徒からすれば父とも頼み慕っておりましたが 今日葬儀を勤めねばなりません この悲しみを超えて み教えを大切に一日を精一杯励んで参ります

  今は お浄土からご照覧し給わんことを念じて 開式の言葉と致します
○住職千葉乗隆の達書・目録・院号法名伝達
   第二十七世安楽寺住職
    俗名 千葉乗隆
 法名 廣開院釈乗隆
 平成二十年四月十二日往生
  享年満年齢八十六歳
達書・目録・院号法名が総長から伝達されました
 達書・目録・院号法名が総長から伝達されました
 本願寺では、法名は釈○○三文字に院号三文字が正式なもので、法師・居士等は用いないことになっています。この度、乗隆には、ご染筆院号法名が贈られました。本願寺派総長不二川公勝様から、直接達書と共に伝達されました。特別の御扱いです。
○御門主御代香 御裏方様御代拝
本願寺派御門主大谷光真御代香及び御裏方大谷範子様御代拝  本願寺派御門主大谷光真様御代香及び御裏方大谷範子様御代拝 特別の御計らいによって、
 本願寺派御門主大谷光真様御代香として、本願寺派総務出口湛龍様 御指し向け。
 本願寺派御裏方大谷範子様御代拝として、本願寺派総務宮崎憲之様 御指し向け。
 御本尊前にて、御焼香 御参拝を賜りました。

 本願寺派では、御門主・御裏方が、葬儀に出られることはありません、御門主は御代香、御裏方は御代拝の御指し向けが、慣例となっています。後日、ご本山に参り御礼言上申し上げました。
○弔辞
 門徒総代 真鍋五郎 
弔辞 真鍋五郎 門徒総代  美馬安楽寺 2008/05/27pm  安楽寺第二十七世ご住職千葉乗隆師門徒葬にあたり お別れの言葉を申し上げます  さる四月十二日お浄土へ還られたとお知らせを頂きました 数日前に大丈夫と承っておりましたので 我が耳を疑いました

 ご院家様と私は 年齢が二つ違いでありましたので ご幼少の頃からご縁があり思い出が尽きません 県立旧制脇町中学校を卒業後 御院家様は聖職と学者の道を歩まれ 私は医師の道へ進みました 過酷な戦争時代を共に生き抜いて 故郷に帰ってからは医療を通じて先代隆範院家様と共に家族ぐるみでご交際をさせて戴き 隆範御院家様の臨終に立ち会わせて戴きました

 一方乘隆院家様は戦後しばらく故郷での療養生活の傍ら 郡里町史(六百三十頁)編集委員長として 町史を完成し 文化の足跡を遺されて ご上洛され 仏教史学の研究生活に入られ 龍谷大学長 本願寺史料研究所長 国際仏教文化協会理事長等仏教界の要職に就かれました  元来私の家は 先祖代々安楽寺様と深いご縁で結ばれており 特に先々代は信心が厚く 毎夕家族でお内仏 さんにお参りしないと寝させてくれませんでした 私はただ習慣的に参る程度でした 戦後故郷に帰っても多忙に任せ お寺様の行事以外は参っておりませんでしたが 妻は早くから仏教婦人会活動に参加し 三十五年前から安楽寺婦徳会会長を勤めさせて戴き現代に至っております 一時は徳島県仏婦会長 本願寺仏教婦人会総連盟評議員なども勤め 深い御仏縁を頂いておりました

 私にもご縁あってか 先代吉田倹四郎総代様の後を受けて総代と仏教両全会会長とに任命されました 仏教両全会は院家様方に顧問としてご指導戴き 百六年の歴史を重ねて尚盛んに存続しております 御院家様は門徒教化にも熱心に取り組まれ 広く門信徒に門戸を開かれ 誰もが参りよいようにと 仏教研修会として伝道されました 大学の繁忙期も休まれることなく毎月京都からお帰りになって三百九十三回昨年五月が最後でした  私の病院新築祝いの折りは 祝辞として乘隆院家様は お釈迦様の主治医名医ジーバカの話を紹介して「草や木など自然界にある物すべてが 人間にとって薬になる」又「森林浴が流行し自然が見直される 一方自然破壊が悪影響をもたらしている」自然のすべてのいのちを大切にと話して戴いたことは いつまでも心に遺っております

 私は総代に就任してからは 毎月の研修会や法座に欠かさず御院家様のご法話を聴聞させて戴きました 良く通るお声で平易なお言葉でお念仏の教えを聞かせて頂き 先祖が何故念仏に熱中していたかが解り 自分も自然にお念仏が出るようになりました 数知れぬ多くの人を仏様の道へみちびかれたくさんの著書を発刊し その度にお届け戴き 学者としても尊敬しておりましたが 今は お浄土へお還りになりました

 生前より お心にかけておられた赤門修復 親鸞聖人七百五十回大遠忌法要 新発意様のご成婚等につきましては 立派な新住職様 優しい坊守様 聡明な新発意様を支えて 門信徒一同心を合わせて邁進して参ります ご安心下さい

 倶会一所のお浄土から照護し給わらんことを念じまして 門徒一同を代表し 哀悼の意を表します
         なもあみだぶつ
○導師表白
 導師 本善寺釈真淨様 
   敬って
 大慈大悲の阿弥陀如来の御前に申し上げます

   本日ここに
 恭しく 仏前を荘厳し 有縁の方々と共に 懇ろに 聖教を拝読して 千葉山安楽寺第二十七世住職 廣開院釈乘隆の葬儀を お勤めいたします

   謹んで思いますに
 わたくしたちが今 あい難い真実のみ教えに遇い 迷いの世界にありながら 喜びの人生を送ることができますことは 仏祖 宗祖のご恩はもとより 念仏のご縁をお勧めくださった尊き師のお導きによるものであります
   顧みますと
 師は仏縁に恵まれ 大正十年安楽寺第二十六世住職千葉隆範師の三男として ご誕生になり  昭和十四年十八歳にして得度されました そして昭和四十七年より三十五年の永きにわたり 住職の重責を果たされ その間 本堂の修復 客殿 庫裡の造営等 境内整備に力を尽くされました
 又 蓮如上人五百回遠忌法要をはじめ 幾度もの大法要をお勤めになり 数多くの法座を開かれ 仏法を尊び 聞法に励み 自信教人信の念仏者として門信徒の教化に力を尽くされました

   ことに師は
 み教えの隆盛を願う心厚く 自坊だけにとどまらず 教育者として龍谷大学長や相愛学園長を歴任され 又 その学識を求められ 本願寺史料研究所の要職に就かれ活躍なさいました
 龍谷大学長時代には 瀬田学舎の開設を決定し 仏教系大学として初の理工学部を創設されるなど幅広い教育環境の整備に尽力されました
 また 真宗史研究の第一人者として 現地調査や史料にもとづく 実証的な研究を進められ 数多くの著書を残されるとともに 全国各地に尊い念仏を縁とした 多くの同行をお育てになられました 師の教化を受けた 僧侶 学徒の数は計り知れず公私にわたる宗門の発展に尽くされた功績は筆舌につくせないものがあります
   思えば
 師の温容に接した数多くの人々は心安らぎ 真摯なお姿に感銘を受け誰しもその恩徳を仰がずにはおられませんでした

   しかしながら
無常のことわりは人をえらばず去る四月十二日午前二時四十分今生の縁遂に尽き 御歳八十六歳にして 往生の素懐を遂げられました
 いまや今生において その温容に接することは叶いません 無常の風はやむことなく 別離の涙も乾くことはありません

   しかしながら
 この別離に悲しみを仏縁としてご遺徳を偲びつつ いよいよ仏法聴聞に勤しみ お念仏を相続し浄土への道を歩まさせて頂きます
 このうえは還相の大悲によってお浄土から私どもを照らしお導きくださいますことを
○弔辞
 龍谷大学長 若原道昭様 
龍谷大学長若原道昭師の弔辞  龍谷大学元学長千葉乘隆先生のご往生にあたり龍谷大学を代表して謹んで弔辞を申し上げます

 先生は千九百五十年龍谷研究科をご卒業の後千九百五十九年に龍谷大学講師にご就任されました 爾来千九百八十九年にご退職になるまで三十年の永きに亘り専ら日本仏教史を講ぜられ 先生の講筵にはべり親しくその謦咳に接したものは 作家の五木寛之氏を始めとして無慮数千にものぼり まことに感謝にたえないところであります  また行政面におきましては 大学紛争さめやらぬ千九百七十四年に学長事務取扱に就任され「十二ヶ年計画」と称する本学にとっては第一次の長期計画を立案されました
 この計画は学費値上げを伴うもので学内から猛烈な反対を受けましたが「学生数の漸減と教員の漸増を中心とする教育・研究条件の抜本的改善に資する計画であり龍谷大学の将来を決するものである」との強い信念のもと 粘り強く説得され見事に断行されました その結果今日のような教育環境が整い安定した財政基盤が確立いたしました  さらに一九八三年からは第十二代学長に就任され 新たに滋賀県に新キャンパスを開設し 理工学部と社会学部を設置するという画期的な大事業を成し遂げられました とりわけ理工学部は文系学部とは異質の分野であり 財政面 人材面 その他滋賀県に設置することもあって これまた反対の声が大多数を占めました
 しかし先生は理工学部の設置は龍谷大学の将来にとって不可欠との大英断を下され ここでも反対派をねばり強く説得されました
 その結果 滋賀県並びに大津市はもとより本願寺からも多大な支援を得て 創立三五〇年を記念する一九八九年 幾多の困難を乗り越え ついに瀬田学者が開学した次第であります このことは偏に先生の高い見識と時代を先取りする進取の精神や明晰な判断力さらには人間味あふれる懐の大きさとご人徳によるものであります

 このように先生は建学の精神高揚はもとより 教育と研究の充実・発展にも努められ その業績は枚挙にいとまがなく 今日の龍谷大学発展の礎を築いてくださいました
 まさに先生は「龍谷大学中興の祖」と申し上げるにふさわしく 重ねて感謝申し上げるところであります  そして何よりも先生のご専門である日本仏教史・真宗史研究におきましては流行におもねらない 資料に基づいた実証的研究姿勢を堅持されました
 現地を足で歩き資料を発掘し 歴史・信仰・民族・芸能など広い視野から地域社会と真宗との結びつきを生き生きと復元した一九七一年刊行の「中部山村社会の真宗」は まさに先生の研究姿勢を示した名著で今もその輝きを失ってはおりません
 偏ることのない歴史認識と実証的研究の姿勢は混沌とした研究状況の中 まっすぐに伸びた道のように学恩を受けた研究者たちに進むべき方向が今も示されております

 このように先生の学問業績は余人の追随を許さないものがあり 終始私どもの欽仰の的であります
 昨年九月 龍谷大学の広報誌「龍谷」六四号で対談させていただき 学長時代の苦労話やお念仏の法味についても多くのご教示を賜りました お元気なお姿が偲ばれ 改めて深い感謝と追慕の念を覚えるものであります  人生に於いて師に遇いがたく 教えの受けがたいことを悲嘆の中に見つめながら 後に残された私達は先生の示し下さいました厳しくもまた尊いおさとしを心にとどめ 微力ながらご精進のみ跡を受け継いでまいりたいとぞんじます

 ここに先生ご在中のご業績を讃えその深重の学恩を拝謝しつつ さらに安養界からの還相摂化によって無辺の群崩を導きたまわらんことを念じ謹んで先生を偲ぶ言葉といたします
○弔辞
 美馬市長 牧田 久様 
 本日ここに 文学博士故千葉乗隆先生のご葬儀に当たり 美馬市民を代表いたしまして 謹んでお別れの言葉を捧げます

 この度の千葉先生の訃報に接し今私たちは 郷土の誇りであります偉大な文化人を失い 先生の温厚な人柄も 慈愛に満ちたお顔も拝顔することも叶わず また親しく教えを請うすべもありません  先生がふるさとに残された幾多の業績はとても数えきれるものではございませんが 先生は龍谷大学長・国際仏教文化協会理事長として 教育界や宗教界での第一線でのご活躍の傍ら たびたびお帰りになられ 貴重なご指導やご助言を頂くなど常に郷土の発展のためにご尽力頂きました

 かえりみますと 先生は昭和二十八年郡里町史の編纂にあたられ 当時本願寺史編纂所からのお誘いがあったにも関わらず 町史がかんせいするまではと京都と美馬を何度も往復しながら 近代編の執筆に当たられたほか昭和三十二年に町史が発刊されるまで編集委員長としての大任を果たさ れました

 また平成元年には郡里町と重清町の合併による新生美馬町としての歩みを記録するため美馬町史が発刊されました この美馬町史の編纂にあたり千葉先生に監修をお願い致しましたところ大変ご多忙の中ふるさとのためにお役に立てればと著述の訂正や編集のご指導を快くお引き受け頂き 幸い仏教学や歴史学の大家であります先生に監修者としてご参加をいただくことで格調高い美馬町史として完成することが出来ました  とりわけ ふるさとの宝であります郡里廃寺跡は先生のご尽力抜きには語ることが出来ません 昭和三十八年の秋 郡里廃寺跡から出土した古瓦数点を先生が奈良国立博物館に持参し鑑定を依頼したことから試掘と測量が実現することとなり 徳島県でもっとも古い白鳳時代に建立された寺院跡であることや伽藍配置も推定できることになりました その後 昭和五十一年に郡里廃寺跡が国指定史跡として指定されましたが 申請書の添削や文科省への働きかけなど 先生のお力に依るところが大きく お陰をもちまして この地が古代阿波の西部に於いて繁栄していたことを証する貴重な歴史遺 産として現在も発掘調査に取り組んでいるところであります また先生は 仏教研究会を発足せられ真摯なお人柄と奥深い講話に宗派を問わず地域の人々や県内外から多くの人々が集まり 高い見識に基づいた解りよいお話で 多くに感銘を与えて頂きました

   先生は美馬町史監修の言葉の中で「ふるさとの自然とそこに住む人々はいつも私の心の支持するところ誠に大きなものがありました」と それだけに先生を失いましたことは 本市にとりましても計り知れない大きな損失であり 惜しみてもなお余りあるものがございます

 本日ここにご葬儀が執り行われるに当たり ふるさとのさらなる発展のために邁進することをこころからお誓いするものであります
 これまで賜りましたご生前のご功績に心から感謝を申し上げますとともに ご遺族の前途と美馬市の発展に永遠のご加護を賜りますよう念じながら先生のご遺徳をしのびつつお別れの言葉と致します
○弔辞
 門徒代表 三野優美 
弔辞 三野優美 門徒代表  美馬安楽寺 2008/05/27  第二十七世安楽寺住職 元龍谷大学長 文学博士 故千葉乘隆院家様の安楽寺門徒葬に当たり 謹んでお別れの言葉を申し上げます
 安楽寺は 宗祖親鸞聖人の高弟であった真仏上人の流れを受けた千葉氏によって 四国の地に浄土真宗の道が開かれ 七百四十余年になると伝えられています

 安楽寺は 四国四県に八十四ヶ寺の末寺を持ち 浄土真宗の教線をのばし布教に務め その役割を果たして参りました 香川県内でも 今なお 私の寺は安楽寺の末寺ですと言われる寺院があります 私たち門徒としては 赤門寺としてのその歴史と伝統に少なからず誇りを持ちつつ 愛山護持につとめてまいりました

 乘隆先生は 早くから学問の道を歩まれ 浄土真宗の最高学府である龍谷大学で教法の職につかれ 子弟の育成と同時に 学長として大学の運営にも当たられました 当時龍谷大学が総合大学として 次々と新しい学部を新設され 大変多忙にして困難な時期でもありました 度々上京され 文部省・大蔵省等に出向きその成功に務められていました 上京の度には衆議院第二会館二三五号室にお立ち寄りいただきました 私は当時予算委員会の筆頭理事でありましたので 短い時間でしたが 寺の近況を聞かしていただきました 私の妹が事務所にいたものですから 安心して時間を過ごされ 一時期には乘隆先生の東京事務所の役割を果たしたのではないかと喜んでおります

 先生は多忙な中でも 寺の行事には殆どお帰りになり 門信徒なり近隣の人々に法話をされていました 私も議員辞職後は夫婦で寺の春秋の永代経法要 年末の報恩湖運は出来るだけお参りさせていただくよう心がけています

 その度ごとに先生の有難いご法話ご聴聞の機会に接しました 又 多くの出版されました仏教書を読みながらの煩悩具足の我らが身をいといながら「南無阿弥陀仏」と念仏に感謝しています 今は 先生が編集責任者として出版されました浄土真宗名法話講話撰集全二十二巻に取りかかっています 今はまだ七巻ですので 私の残された人生ですべてを学ぶことが出来るかどうか心配しております これを熟読してから三途の川を渡ろうと思います 私が彼岸に渡った時は 先生の顔の見えるか声が聞けるところに席をあけておいてください 

 昔と違って現代は安楽寺門徒も全国に散在して暮らしています 時間の経過と共にふる里をなくし先祖をおまつりした安楽寺とも疎遠になりがちであります 私の先祖は半田附近のようですお墓が散在しておりました すべての安楽寺門徒はどこの地で住もうとも心のふる里は安楽寺 本家は安楽寺へと 子供たちにも伝え是非立ち寄りたいものです

 今私は 信じがたい想いで弔辞を読まさして戴いています 二十年前もこの場で前坊守様の弔辞を読まさして頂きました 乘隆先生には この間 私共にはわからないさみしさとご心労があったことでしょう 今は安養の浄土で奥様と再会され一足先に帰った門徒に迎えられさぞ賑やかなことでしょう こちらは日一日と寂しさが増して参りますが 残された門徒一同は 生前よりご教示賜ったお念仏と共に人生を歩んで参ります

 本当に有難いご縁でございました故乘隆先生に感謝しつつ お別れの言葉といたします
○閉式の辞
 総代 藤野正晴 
閉式の辞 藤野正晴総代  美馬安楽寺 2008/05/27   第二十七世住職廣開院釈乘隆様安楽寺門徒葬を終えるに当たり 一言ご挨拶を申し上げます

  この度は 本願寺門主様 お裏方様から お代香お代拝お指し向け頂きました 又総長様直々達書伝達を給わり有り難く存じます 龍谷大学長様美馬市長様 から弔辞を賜り感謝に堪えません

  西は九州東は関東に至る各所から葬儀に駆けつけて戴きました  又 数多くの弔電・お便りを頂きました 改めて乘隆住職の交流の広さ・お徳の高さを知らせて戴くことになりました
  乘隆住職は 大学でご多用の折も晩年は「機械に頼って命ながらえています」と冗談を言っておられたここ十年も 毎年門徒の要望に応えて 春・秋の永代経法要には御法話をしてくださいました

  お話を聞くことを楽しみに参らせて戴いておりました お彼岸で六波羅密の六つの行業のお話など門徒の目線で親しく優しい語り口は そのお姿と共に忘れ難く 敬慕の思いは尽きません  もうお声は聞けませんが お話し戴いた一つ一つを思い起こしながら お 念仏と共に人生を歩んで参ります  これより後は門徒一同が力を合わせて 安楽寺が聞法の道場としてますます繁盛致すよう精進することを誓って閉式の言葉と致します
 なもあみだぶつ
○住職千葉乗隆門徒葬式次第
  脇町安楽寺 2008/05/27(火) 午前十時三十分始
安楽寺第三世住職    (脇町)
  広開院釈乗隆 俗名千葉乗隆
葬儀式次第

一、喚鐘      
一、開式の辞
一、達書伝達


一、諸僧入場着座
 キン二音
一、三奉請        
一、導師焼香       
一、導師表白
一、喪主焼香    
一、門徒総代弔辞
一、四州教区教務所長弔辞
一、美馬市長弔辞
一、五木寛之さんからのメッセージ
一、弔電奉読
 キン二音
一、読経 正信偈
 キン一音
 五劫思惟以降焼香 
 キン一音
 短念仏六辺
 キン一音
 念仏
 添引和讃二首
 結讃 願似此
 キン三音
一、御文章 白骨の章
一、お礼の言葉

一、諸僧退出
一、楽員退出
一、閉式の辞
一、同退出  
平成二十(2008)年五月二十七日

午前十時半始
親族・弔問者入場着座
喚鐘中楽員着座
葬儀委員長 藤川孝士
四州教区教務所長
   住職  千葉昭彦へ
   音取 楽
   止楽

   付け楽
   作相中
        西教寺様
   住職  千葉昭彦
        井上忠利
        本川道昭様
        牧田 久様
        林 浅子様
        金原新一



親族・弔間者・門徒他







  住職  千葉昭彦
  音取・楽
  止楽

  総代  上田雅也
          以上
○弔辞
 脇町安楽寺総代 井上忠利 
弔辞 井上忠利総代  脇町安楽寺 2008/05/27am  安楽寺第三代住職廣開院釈乗隆師門徒葬に当たり お別れの言葉を申し上げます

 乗隆住職は 大正十年美馬町安楽寺にお誕生され 昭和十二年旧制脇町中学を四年で繰り上げ卒業し 龍谷大学予科に進学 十四年本願寺で得度されました 十八年西部三十三部隊入隊 十九年本願寺派教師 龍谷大学卒業 陸軍浜松飛行学校に転属と戦時中慌ただしい時を経て 昭和二十年復員されましたが 結核を患い療養生活を余儀なくされるも この間二十二年には龍谷大学研究科入学卒業の後郡里町史編集委員長を務められました 三十二年には本願寺史料編纂所員として上洛 三十四年からは龍谷大学教員として勤務 五十二年には文学博士の学位を受領され 五十八年には龍谷大学長に就任 四十四年第二代法城住職ご往生の後は 三代目住職に就任され平成三年昭彦住職に継職なさるまでの間 門徒教化に尽くされました

 毎年十二月の報恩講にはご法話をいただきました 門徒一同この日を楽しみに聞法に集い 一年の心の垢を落とさせていただきました 積年のご労苦は実を結び 本堂・書院・会館・書院が新築され寺引致しての体裁を整えるに至りました落慶法要の時 毎月ご法話が聞きたいとの要望が巻き起こり毎月二十日はお寺の日常例法座が取り次がれるようになりました お陰で 多くの者がお念仏と共に生きる喜びに気づかさせていただきました 有り難きことでございます

 乗隆前住職は 親鸞聖人七百五十回大遠忌法要を楽しみにお待ち受けして居られました  私たち門徒一同このご縁を大切に致してご本山参り 安楽寺での法要などご一緒にお参りさせていただこうと話しておりました矢先の訃報でした 哀しみの中から立ち上がり出発を致さねばなりません 今日門徒葬の記念に七百五十回大遠忌法要記念門徒式章をお渡しし 乗降前住職のご意志を 受け継いで参りたいと存じます この本堂が 聞法の道場として永代護持され一人でも多くの方が聴聞されるよう精進いたして参ります

 今は お浄土から照護し給わらんことを念じて
 なもあみだぶつ
○弔辞
 四州教区教務所長 本川道昭様
弔辞 四州教区教務所長 本川道昭様 脇町安楽寺 2008/05/27am  謹んで 安楽寺第三世住職故千葉乗隆師のご葬儀に当たり、浄土真宗本願寺派四州教区を代表いたしまして、衷心より哀悼の意を表します

 師は 大正十年安楽寺第二十六世住職隆範師の三男として誕生され、長じて、前住職の跡を受け継いで、脇町安楽寺を二十二年 郡里安楽寺を三十六年の永きに亘り よく住職の重責を担われました。又本堂新築・境内地整備などにカを尽くされ、あるいは幾たびかの大法要を勤修するなど寺運の興隆に努められました

 さらに 布教伝道の志厚くして各地にその法縁を結ばれ 自信教人信を自ら実践されました。正にそのお姿は真の念仏者の生涯であられました また 宗門におきましては 龍谷大学教授を経て 京都女子大学講師 本願寺史料研究所研究員などを兼務され 昭和五十八年には龍谷大学学長に就任され 教育の場において 浄土真宗のみ教えの弘通に勤められました さらに 国際仏教文化協会理事長 浄土真宗教学研究所所長など数々の要職を歴任され 特に本願寺史料研究所所長として 宗祖親鸞聖人 並びに 本願寺史に精通され 数々の貴重な史料の歴史的発掘研鑽に勤められました そのご功績は到底言葉に尽くすことが出来ません 師を失いましたことは 宗門のみならず 日本仏教界における多大な損失であり 深い哀しみであります

 しかしながら 私どもはこの哀しみを乗り越え 師の意志を受け継ぎ お念仏興隆のために邁進いたすことをお誓い申し上げます 師の生前の偉大な功績 ご苦労に心より感謝申し上げ 弔辞とさせていただきます
○住職千葉乗隆略歴
故千葉乗隆略歴
大正  十年  五月  四日
昭和  九年
昭和十三年
昭和十四年
昭和十七年
昭和十八年十二月
昭和一九年  一月
     同年 三月
     同年 九月
昭和二十年  八月
     同年 四月
     同年 九月
昭和二五年
昭和二七年  七月
昭和二九年十一月
昭和三二年  九月
昭和三四年
昭和四十年
昭和四四年
昭和四五年
昭和四七年
昭和四八年
昭和四九年
昭和五十年
昭和五十年
昭和五八年  四月
     同年
     同年
平成  二年
平成  三年

平成  四年
平成  七年
     同年
平成  八年
平成二十年 四月十二日

美馬町安楽寺にてご誕生
徳島県立脇町中学入学
龍谷大学予科に入学
本願寺にて得度
龍谷大学文学部史学科入学
西部三三部隊入隊
本願寺派教師
浜松陸軍飛行学校転属
龍谷大学文学部卒業
浜松陸軍飛行学校復員
郡里町社会教育委員
龍谷大学研究科入学
龍谷大学研究科卒業
郡里町文化財保護委員
郡里町史編集委員長
本願寺史編纂所編纂委員
龍谷大学文学部講師
龍谷大学文学部助教授
脇町安楽寺住職就任
龍谷大学文学部教授
安楽寺住職就任
龍谷大学文学部長
龍谷大学学長事務取扱
日本私立大学連盟理事
文学博士学位受領
龍谷大学長
本願寺史料研究所所長
安楽寺本堂屋根修復
国際仏教文化協会理事長
脇町安楽寺住職退任.
    前住職就任
浄土真宗教学研究所長
相愛学園理事長
脇町安楽寺本堂会館書院建立
安楽寺客殿・庫裡造営
ご往生
○各新聞に於ける訃報
 平成20(2008)年4月12日に死去しました住職千葉乗隆の各新聞に掲載されました訃報をまとめました
 徳島新聞(訃報:2008/04/15 記事:2008/04/17 閑話小題:2008/04/21)、
京都新聞(2008/04/15)、朝日新聞(全国版 2008/04/15)、毎日新聞(全国版 2008/04/15)、本願寺新報(2008/04/20)

千葉 乗隆さん(ちば・じょうりゅう=本願寺史料研究所長・元龍谷大学長・近世仏教史・安楽寺住職)
 4月12日午前2時、急性心不全のため京都市伏見区の自宅で死去。86歳。徳島県美馬市美馬町出身。本葬は5月27日午後1時から徳島県美馬市美馬町宮西11の自坊、安楽寺で。喪主は、娘婿昭彦(あきひこ)氏
 昭和58(1983)年から平成元(1989)年まで龍谷大学学長。昭和52(1977)年から本願寺史料研究所研究員、昭和58(1983)年から同研究所長を務め、『本願寺史』の編纂など歴史学の重鎮として活躍した。専門は近世仏教史。
 龍谷大学学長時代に、滋賀県と大津市の誘致を受けて瀬田学舎の開設を決定し、仏教系大学として初の理工系学部を設置した。
 作家五木寛之さんが龍谷大聴講生の時に「中近世社会と宗教」を講義した。
○住職死去のお知らせ
お知らせ
 安楽寺住職 千葉乗隆 は平成20年4月12日に死去いたしました
 ここに謹んでお知らせします と共に 生前のご厚意に衷心より御礼申し上げます ありがとうございました
 なお 葬儀は5月27日(火)
 午後1時から美馬安楽寺(徳島県美馬市美馬町宮西11)
 午前10時30分から脇町安楽寺(徳島県美馬市脇町大字脇町403)
にて執り行う予定です
 また「臨終の善悪をば申さず」 をクリックしていただくと
親鸞聖人のお言葉を千葉乗隆が肉声で解説しています
 なお「ここ」をクリックしていただくと前記音声が文字により表示されます     
○ご会葬御礼
ご会葬御礼
 住職千葉乗隆の葬儀に際しましてはご多忙中にも係わりませず また遠路のところご会葬いただき有り難うございました ここに略儀ながら謹んで御礼申し上げます
 なお「臨終の善悪をば申さず」 をクリックしていただくと 親鸞聖人のお言葉を千葉乗隆が肉声で解説しています
 また「ここ」をクリックしていただくと前記音声が文字により表示されます   
〒771−2105 徳島県美馬市美馬町大字宮西11
電話0883−63−2015
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