安楽寺 浄土真宗本願寺派 千葉山安楽寺
親鸞聖人御一代 第十回 仏教研修会2011
千葉昭彦
◎親鸞聖人御一代 第十回  親鸞聖人の伝道
  (安楽寺報 平成23(2011)年報恩講版 千葉山安楽寺機関誌 掲載)
  (妙音 平成23(2011)年報恩講版 千葉山安楽寺機関誌 掲載)

○親鸞聖人の伝道I
写真
 写真は親鸞聖人常陸へ『善信上人絵』(本願寺蔵)

 法然上人は、讃岐へ流罪されたが、一年たらずで流罪を許された。しかし、洛中への往還を許されず。摂津勝尾寺に留め置かれ、四年後(建暦元年一二一一)にようやく京都に帰ることを許された。同時に親鸞聖人も赦免された。その二ヶ月後(建暦二年)法然上人は八〇歳をもって示寂した。

 親鸞聖人はこの知らせを受け、京に帰る望を捨て、なお越後にとどまった。この年三月に信連房が誕生したことも一因と思われる。三年後建保二年(一二一四)聖人四十二歳の頃越後を出て、常陸の国に向かった。

 理由は定かでないが、一つは、法然上人の遺言に、「遺弟は、各自の居所に住み、一カ所に集まらないように」諭している。これは、多数の念仏者が集合すると、他の教団を刺激し、争いが起こり、弾圧を招くことを配慮してのことと考えられる。このお諭しに従われたか?

 他には、恵信尼の実家三好氏の所領が常陸にあった。越後の農民が常陸に移住したので、共にした。聖人の尊敬する聖徳太子の信仰が東国で盛んであった。諸説ある中で、最近の調べで有力なのは、善光寺の勧進聖であったとする説である。「安城の御影」の装束や所持品は、当時の念仏聖に共通するもので、聖人は遍歴遊行して念仏をすすめる聖の一人であったとするもので、善光寺聖と共に行動して常陸に赴いたとする注目に値する説である。聖人は晩年、「善光寺如来和讃」を作っておられ、「親鸞伝絵」にも、聖人は善光寺本願の御房であると記されている事も興味深い。

 当時の関東は、鎌倉幕府が樹立されて間もなく、フロンティア的気風が色濃く、革新的な、念仏伝道の地と定め、保守的な越後を離れて、移住されたか?疑問は多いが、家族揃っての移住にはよほどの決断があったと推察される。関東に親鸞聖人一流のお念仏が広まることとなり、このご縁無くば、安楽寺の今日も無かった。