安楽寺 浄土真宗本願寺派 千葉山安楽寺
親鸞聖人御一代 第八回 仏教研修会2011
千葉昭彦
◎親鸞聖人御一代 第八回
  (妙音及び安楽寺報 平成23(2011)年夏版 千葉山安楽寺機関誌 掲載)

○親鸞聖人越後の生活
写真
 写真は『親鸞伝絵 』雪国「国府 国分寺」の図

 配流地越後国府における聖人の生活を詳しく知ることはできない。 京の都を追われ、大坂峠を越え、琵琶湖を船で渡り、今でいう鯖街道を歩き、福井からまた船旅で、直江津居多ヶ浜に上陸されたようである。そこから国府までの長旅を余儀なくされたのでした。

 『親鸞伝絵 』には、「大師聖人 源空 もし流刑に処せられたまわずは、われまた配所におもむかんや。もしわれ配所におもむかずんば、なにによりてか辺鄙の群類を化せん。これなお師教の恩致なり」と辺境の人たちに念仏をひろめようとの決心をもって、越後におもむいたとつたえているが、実際には、越後では、積極的な伝道活動はおこなわなかったようである。

 たとえば、聖人の門弟中、越後在住のものが覚善ただ一人に過ぎないのは、越後の伝道活動が、積極的でなかったことを示すといえる。それは、流人として下ったので、伝道は許されなかったと考えられる。また、聖人自身、積極的に念仏をすすめる心境ではなかったといゆうことであろう。越後における七年間の聖人の生活は、非僧非俗の愚禿の生活に、念仏を喜び心境を深める思索の期間であったかとおもわれます。 それは越後の風土、すなわち雪にとじこめられ荒れ狂う北海の烈風に耐える厳冬の半年と、緑にさえわたる頸城野(くびきの)に座して、さわやかな妙高の連峰に対する明と闇との月日に、苦悩と救済との対置を見、念仏による救いは、より強く聖人の膚を通じて感じ取られたことであろう。

 恵信尼様との間に、六人の子宝に恵まれ、家族仲睦まじく過ごされたことは、見て取れます。