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浄土真宗の歴史に学ぶ
(仏教研修会 第339回) 2002/5/26
千葉 乗隆
『歎異抄』が語る親鸞聖人6

  1. 『歎異抄』の第二条


  • 第二条 現代語訳

 あなたがたが、東国からはるばると十余か国の国境をこえて、命がけで、京都のわたし のところを訪ねてこられたのは、ひとえに、極楽浄土に生まれる道を問いただしたいとい う思いによるものです。しかし、あなたがたが、わたしが念仏よりほかに浄土に生まれる 道を知っており、またそれに関する特別の教えをも心得ていて、そのことの真相を知りた いと思っておられるのでしたら、それは大きな誤解です。もしそういうことであれば、奈 良の興福寺や比叡山の延暦寺などに、すぐれた学僧がおられますので、その人たちにお会 いになって、浄土に生まれるてだてをくわしくお聞きになったらよろしい。

 わたしは、「ただひとすじに念仏して、阿弥陀さまにたすけられて、お浄土に生まれさ せていただきなさい」という、法然聖人のお言葉を信じて念仏する以外に、浄土に生まれ るための別のてだてなど全く知りません。

 念仏は、ほんとうに浄土に生まれるたねなのか、あるいは地獄におちる行いなのか、わ たしにはまったくわかりません。もしかりに法然聖人にだまされて、念仏して地獄におち たとしても、わたしはすこしも後悔はいたしません。それは、念仏以外の行をはげんで、 仏になることのできる身でありながら、念仏したために地獄におちたということであれば、 法然聖人にだまされたという後悔もおこりましょう。しかし、どのような行も満足に修め ることのできない愚かなわたしですから、地獄以外に行くところはありません。  阿弥陀さまの、すべてのいのちあるものを救うという願いが真実であるならば、そのこ とを説き示されたお釈迦さまの教えが、いつわりであるはずはありません。お釈迦さまの 教えが真実であるならば、そのお心をうけついだ善導大師の解釈にいつわりはありません。 善導大師の解釈が真実であるならば、それにもとづいて念仏往生の教えを説かれた法然聖 人のお言葉にいつわりがあるはずはありません。法然聖人のお言葉が真実であるならば、 その教えをうけつぐ、この親鸞が申すこともまた無意味なことではありますまい。

 要するに、わたしの信心は、以上申しました通りです。このうえは、念仏の教えをお信 じになられようと、また念仏をお捨てになられようと、あなたがたお一人お一人のお心の ままになされるがよろしいでしょう。

 このように、親鸞聖人は仰せになりました。

  • 第二条 原 文
 おのおのの、十余ヶ国のさかひをこえて、神命をかへり みずして、たづねきたらしめたまふこころざし、ひとへ に、往生極楽のみちをとひきかんがためなり。しかるに、念 仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をもしりた るらんと、こころにくくおぼしめしておはしましてはんべら んは、おほきなるあやまりなり。もししからば、南都・北嶺 にも、ゆゆしき学生たち、おほく座せられてさふらうなれば、 かのひとにもあひたてまつりて、往生の、よくよくきかる べきなり。親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけら れまひらすべしと、よきひとのおほせをかぶりて、信ずるほ かに、別の子細なきなり。

 念仏は、まことに、浄土にむまるるたねにてやはんべらん、 また、地獄におつべきにてやはんべるらん。惣じてもつて 存知せざるなり。たとひ、法然聖人にすかされまひらせて、 念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふら う。そのゆへは、自余の行もはげみて、仏になるべかりける 身が、念仏をまふして地獄にもおちてさふらはばこそ、すか されたてまつりてといふ後悔もさふらはめ、いづれの行もお よびがたき身なれば、とても、地獄は一定すみかぞかし。

 弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊説教、虚言な るべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の御釈、虚言 したまふべからず。善導の御釈まことならば、法然のおほせ、 そらごとならんや。法然のおほせ、まことならば、親鸞がま ふすむね、またもつてむなしかるべからずさふらうカ(カ:與偏に欠旁)。

 ずるところ、愚身の信心におきては、かくのごとし。  このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなりと云々。


  • 第二条 要 旨
 親鸞は、二十年間、東国で伝道し、六十四歳の頃、 京都に帰った。それからさらに二十年を経た頃、東国の念 仏者を大混乱におとしいれる事件が発生した。

 それは、親鸞が帰京したのち、東国の念仏者の間に異義 が発生したので、それを説得するため、親鸞は息男の善鸞 を派遣した。ところが善鸞は、「自分ひとりだけが親鸞か らひそかに授かった教えである」といって異義を説いたの である。親鸞は動揺をしずめるために、善鸞を義絶した。  この事件のときに、唯円等の東国門弟が、親鸞の真意を たしかめようと上京し、そのとき交わされた親鸞と門弟と の対話が、この第二条にしるされている。

 その結論は、浄土に生まれるためには、ひそかに伝授す るような特別のてだては全くなく、ただ阿弥陀仏の救いを 信じて念仏する以外に道のないことを強調している。