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浄土真宗の歴史に学ぶ
(仏教研修会 第340回) 2002/6/23
千葉 乗隆
『歎異抄』が語る親鸞聖人7

  1. 『歎異抄』の第三条


  • 第三条 現代語訳

 善人でさえ浄土に行けます。まして悪人が行けないことはありません。

 しかし、世間の人は普通には、つぎのようにいいます。「悪人でさえ浄土に行けるのだ から、善人が行けるのはあたりまえである」と。この考え方は、一応もっとものようです が、阿弥陀さまのお救いの趣旨に反します。

 その理由は、自分の努力で善い行いをつみかさねて浄土に生まれようと心がける人は、 阿弥陀さまのお力におすがりしようという心のない人ですから、阿弥陀さまに救われて浄 土に行くことはできません。しかし、そういう人も、みずからの善をたのむ心をひるがえ して、阿弥陀さまのお力におすがりしておまかせすれば、浄土に生まれることができます。
欲望をすてることができないわたしたちは、どのような修行をしても結局は不十分に終 わり、迷いの世界をはなれることができません。そのような人間をあわれにお思いになっ て、助けようという願いをおこされたのが阿弥陀さまです。ですから、阿弥陀さまの本意 は悪人を救って仏にするためですので、ひたすら阿弥陀さまのお力におすがりする悪人こ そ、まず浄土に生まれる資格を持っています。

 したがって、善人でさえ浄土に行けるのであれば、まして悪人が行けるのは当然のこと であると、聖人は仰せになりました。

  • 第三条 原 文
 善人なをもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。

 しかるを、世のひとつねにいはく、「悪人なを往生す、い かにいはんや善人をや」。この条、一旦、そのいはれあるに にたれども、本願他力意趣にそむけり。

 そのゆへは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこ ころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自 力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真 実報土の往生をとぐるなり。

 煩悩具足のわれらは、いづれの行にても、生死をはなるる ことあるべからざるを、あはれみたまひて、願をおこしたま ふ本意悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪 人、もつとも往生の正因なり。

 よつて、善人だにこそ往生すれ、まして悪人は、とおほせ さふらひき。

  • 第三条 要 旨
  「善人なをもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」

 と、阿弥陀仏の救いの主対象は悪人であるという主張は、  悪人正機と称され、浄土真宗の教義の特色の一つである。  善人は悪人よりもよい、したがって善人がさきに助けられ  るという通俗の考えを否定して、まず悪人から救われるの  だという、非常識的な発言をして、ついで悪人がめあてで  あることの理由が示されている。

 「善人なをもつて…」というこの言葉は、親鸞が法然から  口伝され、それを親鸞は唯円に語り伝えたのであった。