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浄土真宗の歴史に学ぶ
(仏教研修会 第345回) 2002/11/24
千葉 乗隆
『歎異抄』が語る親鸞聖人12

  1. 『歎異抄』の第八条


  • 第八条 現代語訳

 念仏は、それをとなえるわたしたちにとっては、行でもなく、また善でもありません。

 自力の行は、自分の能力をはたらかせて真実を追求しますが、念仏はわたしの考えで行 うことではないので、わたしにとっても行ではありません。また、わたしが努力して修め た善でもありませんので、わたしにとっては善行とはいえません。念仏は、ひとえに、阿 弥陀さまのはたらきかけによるもので、すなわち他力の行ですから、自力ではありません。 それゆえに、念仏するものにとっては、行でもなく善でもないということです。

 このように、聖人は仰せになりました。

  • 第八条 原 文
 念仏は、行者のために、非行・非善なり。

 わがはからひにて行ずるにあらざれば、非行といふ。わが はからひにてつくる善にもあらざれば、非善といふ。ひとへ に、他力にして、自力をはなれたるゆへに、行者のためには、 非行・非善なりと云々。

  • 第八条 要 旨
 南無阿弥陀仏の名号は、最高の善であり、また最勝 の行である。しかし、親鸞は、その名号をとなえる念仏者 にとっては、善でもなく、また行でもないという。それは、 名号は、阿弥陀仏からたまわったものであるから、念仏者 のはからいでもって、さらに善をつみかさねたり、また行 を充実するということは、あり得ないからであるという。
注"最勝" 最もすぐれていること