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浄土真宗の歴史に学ぶ
(仏教研修会 第347回) 2003/2/23
千葉 乗隆
『歎異抄』が語る親鸞聖人13

  1. 『歎異抄』の第九条


  • 第九条 現代語訳

 「念仏を申しておりましても、おどりあがるような喜びがありません。また、急いで浄土 へまいりたいという心もおこりません。これはいったいどうしたことでしょうか」とおた ずねしました。すると親鸞聖人は、「実はわたしも同じような疑問をいだいていたのです が、唯円房よ、あなたも同じ思いをもっていたのですね」といわれて、つぎのように仰せ になりました。

 このことをよくよく考えてみますと、天におどり地におどりあがるほどに、喜ぶべきこ とですのに、それが喜べないのは、わたしが浄土に往生させていただけるしるしであると 思います。というのは、喜ぼうとする心をおさえて、喜ばせないようにしむけたのは、煩 悩のしわざです。しかし、阿弥陀さまは、そのようなわたしであることをはじめから知っ ておられて、煩悩からのがれることのできない愚かなこのわたしたちを、なんとか救おう という願いをたてられたのでした。したがって、もともと阿弥陀さまはわたしたちを救う ことを目的としておられたのだということで、ますますたのもしく思われます。  また、はやく浄土へまいりたいという心がおこらず、少し病気などすると、もしや死ぬ のではあるまいかと心細く思うのも、煩悩のしわざです。はてしなく遠いむかしから今ま で生まれかわり死にかわりしつづけてきた、苦悩にみちたこの迷いの世界を捨てることが できません。またこれから生まれさせていただける浄土は、安らかでよい世界であるとい うことですが、行きたいという気持ちがありません。このことは、よくよく、わたしは煩 悩のさかんな身であるからでしょう。どれほど名残惜しいと思っても、この世の縁がつき て、どうにもならなくなって命が終わるときに、浄土に参らせていただけばよいのです。 はやく浄土に参りたいという心のないものを、阿弥陀さまは特にあわれに思ってくださる のです。このようなわけですから、いよいよ、大いなる慈悲の心でおこされた阿弥陀さま の本願はたのもしく、浄土に生まれさせていただくことはたしかであると思います。

 念仏して、もしもおどりあがるような喜びがあり、また、はやく浄土へまいりたいと思 うようでしたら、わたしには煩悩がないのであろうかと、かえって疑わしく思うことでし ょう。

 このように、聖人は仰せになりました。

  • 第九条 原 文
 「念仏まふしさふらへども、踊躍歓喜のこころおろそか にさふらふこと、また、いそぎ浄土へまひりたきこころのさ ふらはぬは、いかにとさふらうべきことにてさふらうやら ん」とまふしいれてさふらひしかば、「親鸞もこの不審あり つるに、唯円房おなじこころにてありけり」。

 「よくよく案じみれば、天におどり地におどるほどによろこ ぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ、往生は一定(と) おもひたまふなり。よろこぶべきこころをおさへて、よろこ ばざるは、煩悩の所為なり。しかるに、仏、かねてしろしめ して、煩悩具足の凡夫とおほせられたることなれば、他力の 悲願は、かくのごとし、われらがためなりけりとしられて、 いよいよ、たのもしくおぼゆるなり」。

 「また、浄土へいそぎまひりたきこころのなくて、いささか 所労のこともあれば、死なんずるやらんと、こころぼそくお ぼゆることも、煩悩の所為なり。久遠劫よりいままで流転せ る苦悩の旧里はすてがたく、いまだむまれざる安養浄土はこ ひしからずさふらふこと、まことに、よくよく、煩悩の興盛 にさふらうにこそ。なごりおしくおもへども、裟婆の縁つき て、ちからなくしておはるときに、かの土へはまひるべきな り。いそぎまひりたきこころなきものを、ことにあはれみた まふなり。これにつけてこそ、いよいよ、大悲大願はたのも しく、往生は決定と存じさふらへ」。

 「踊躍歓喜のこころもあり、いそぎ浄土へもまひりたくさふ らはんには、煩悩のなきやらんと、あ(や)しくさふらひな まし」 と云々。

  • 第九条 要 旨
 この条は、親鸞と唯円の対話である。その内容は、 念仏して浄土に生まれることについて、唯円がいだいた二 つの疑問と、それに対する親鸞の回答がしるされている。

 まず第一問は、念仏していても、おどりあがるほどの喜 びを感じないこと。

 第二問は、浄土はすばらしいところだというのに、はや く行きたいという心がおこらないこと。

 これに対する親鸞の答えは、唯円にとって大変な驚きで あった。それは、親鸞も唯円と同じ思いをいだいているこ と。そして、念仏しても喜びがないのは、煩悩のしわざで あり、煩悩にとまどうわたしたちを救うのが阿弥陀仏の願 いであるので、わたしたちが救われることは間違いないこ と。

 また第二問についても、浄土にはやく行きたくないとい う心は、これまた煩悩のしわざであり、このような心の持 ち主をこそ、阿弥陀仏は特にあわれんで救いの手をさしの ばしてくださるのだと、明快に答えている。