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浄土真宗の歴史に学ぶ
(仏教研修会 第350回) 2003/6/29
千葉 乗隆
本願寺と藪内茶道


  •  茶は天台宗の開祖最澄が延暦二四年(八〇五)に中国から持ち帰り、薬として 使用。のち日本での栽培が中断したので、臨済宗の開祖栄西が建久二年(一 一九一)に中国から持ち帰り、普及した。茶の湯の作法は、室町時代に村田 珠光(文亀二年(一五〇二)没、年令不詳)が創始し、武野紹鴎(文亀二年 (一五〇二)〜弘治元年(一五五五))を経て、千利休(大永二年(一五二二) 〜天正一九年(一五九一))により大成された。

  •  本願寺第三代覚如(文永七年(一二七〇)〜正平六年(一三五一))の伝記 絵巻『慕帰絵』に、本願寺の台所に風炉・茶釜・茶桶・茶入・天目茶碗・茶 杓・茶筅・茶臼など茶道具が描かれているので、会合などに茶を点てて供応 したことが知られる。

  •  第八代蓮如(応永二二年(一四一五)〜明応八年(一四九九))の時、越前 の吉崎御坊に茶所を設けて参詣人を接待した。

  •  第十代証如(永正一三年(一五一六)〜天文二三年(一五五四))の時、法会 などに御堂で本式茶湯を催した。また寺内衆が茶会の費用を出し合って催す 出銭茶湯も盛んに行われた。

  •  第十一代顕如(天文一二年(一五四三)〜文禄元年(一五九二))の時、信 長に白天目の茶碗をおくる。信長から一文字茶碗をおくられる。また大坂城 などで秀吉の催す茶会に招かれ、千利休・津田宗及・今井宗久など茶頭の接 待をうける。
  •  第十三代良如(慶長一七年(一六一二)〜寛文二年(一六六二))の時、寛 永初年に対面所・白書院を造り、寛永13年(一六三六)御影堂、寛永一七 年学寮(龍谷大学の前身、明暦三年(一六五七)黒書院をそれぞれ造営して 寺観を整備するとともに、寛永十七年、薮内真翁紹智(薮内流茶道二代、初 代は剣仲紹智で千利休の門弟)を茶道師家(茶頭)にむかえた。

  •  第十四代寂如(慶安四年(一六五一)〜享保一〇年(一七二五))の時、し ばしば薮内家を訪ね茶の湯の接待をうけた。寂如は山科露山に浸雲事を建て、 学問に励み茶の湯をたしなんだ。のちここに窯を設け、茶碗を焼いた。露山 焼と称される。

  •  第十六代湛如(享保元年(一七一六)〜寛保元年(一七四一))は門主就任 わずか三年、二十四歳で示寂したが、これについて「薮内歴代調」に左記の ような詳細な記載がある。  「湛如上人(本顧寺第十六代)の御裏方様、時の権力者徳川家より御入あり たり。江戸御伺のときは、住如上人(本願寺第十五代)まで、玄関にて御 駕(かご)より御出まし、御徒歩にて式台まで行かれしも、湛如上人、御 裏方様の御関係にて、其後湛如上人御同道否にかかわらず、御式台まで御 駕召さるる様となり、次で東本願寺も同様となれり。湛如上人誠に眉目秀 麗にて、姫宮様の中心となられしも、そのうち如何なることありしや、遂 に御無念のことありしか、御自害これありときく。(寛保元年(一七四一) 六月七日))

  •  第十八代文如(延享元年(一七四四)〜寛政一一年(一七九九))、この時 代が門主と薮内家が最も親交を深くした時代である。文如は薮内宗堅に入門 し、茶の湯を学んだ。宗堅は薮内流の綱紀をしるした『茶法口義』を文如に 伝授し、ついで免許皆伝を認許した。このとき文如は漢詩を作り、本願寺の 法統と薮内家の茶道とが、ともに末永く栄えることを願っている。  文如は飛雲閣に薮内の茶壷「燕庵」の様式をとりいれた茶室「憶昔」を付設 した。

     文如いらい本願寺と薮内家茶道との親交は現在にいたるまで維持されている。