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浄土真宗の歴史に学ぶ
(仏教研修会 第351回) 2003/8/3
千葉 乗隆
『歎異抄』が語る親鸞聖人16

  1. 『歎異抄』の第十一条


  • 第十一条 現代語訳

 文字が一つも読めないような人が念仏しているのをみて、「あなたは、阿弥陀さまの誓 願の不思議な力を信じてお念仏をしているのですか。それとも、阿弥陀さまの名号の不思 議な力を信じてお念仏しているのですか」といって、その人をびっくりさせ、しかも、こ の二つの不思議について、はっきりと説明することもなく、人の心をまよわす人がいます。

 このことは、よくよく注意して考えなければなりません。

 阿弥陀さまは、すべてのいのちあるものを救うという不思議な誓願をたてられて、誰で も覚えやすく、となえやすい「南無阿弥陀仏」という名号を考え出され、この名号をとな えるものを浄土にむかえとろうと約束されました。だから、まず第一に、わたしは阿弥陀 さまの大いなるお慈悲の心によっておこされた不思議なお力に助けられてこの迷いの世界 をはなれることができると信じ、お念仏をとなえるのも、これまた、阿弥陀さまのおはか らいであると思うと、そこには、すこしも自分の考えはまじっていません。したがって、 それは阿弥陀さまの願いにかなうことで、真実の浄土に生まれることができます。

 これは、阿弥陀さまの誓願の不思議な力をひとえに信じたなれば、名号の不思議なはた らきも同時にそこにそなわっているので、誓願と名号の不思議なはたらきは一つであって、 決して異なるものではないということです。  つぎに、自分の判断でもって、善と悪について、善いことをすれば浄土に生まれるたす けになり、悪いことをすれば浄土に生まれるさまたげになると考えるのは、善と悪の区別 なく救ってくださる阿弥陀さまの誓願の不思議なはたらきを信じないということです。自 分の勝手な判断で、善い行をはげんで往生しようということです。したがって、その人の となえる念仏は、自力になります。このような人は、名号のもつ不思議なはたらきをも信 じないということです。しかし、信じてはいないけれども、また、その人のとなえる念仏 が自力であっても、仏さまのおはからいで、辺地・懈慢界・疑城胎宮などといわれる、仮 の浄土に生まれさせていただけます。そして、ついにほ真実の浄土に生まれさせていただ けます。それは名号の不思議なはたらきであり、それはまた誓願の不思議なはたらきによ るものですから、この二つはまったく一つのものなのです。


  • 第十一条 原 文
 一文不通のともがらの念仏まふすにあふて、「なんぢは、 誓願寺不思議を信じて念仏まふすか、また、名号不思議を信 ずるか」といひおどろかして、ふたつの不思議を子細をも分 明にいひひらかずして、ひとのこころをまどはすこと。

 この条、かへすがへすも、こころをとどめて、おもひわく べきことなり。

 誓願の不思議によりて、やすくたもち、となへやすき名号 を案じいだしたまひて、この名字をとなへんものを、むかへ とらんと御約束あることなれば、まづ、弥陀の大悲大願の不 思議にたすけられまひらせて、生死をいづべしと信じて、念 仏のまふさるるも、如来の御はからひなりとおもへば、すこ しも、みづからのはからひ、まじはらざるがゆへに、本願に 相応して、実報土に往生するなり。これは、誓願の不思議を むねと信じたてまつれば、名号の不思議も具足して、誓願・ 名号の不思議ひとつにして、さらにことなることなきなり。

 つぎに、みづからのはからひをさしはさみて、善悪のふた つにつきて、往生のたすけ・さはり、二様におもふは、誓願 の不思議をばたのまずして、わがこころに往生の業をはげみ てまふすところの念仏をも自行になすなり。このひとは、名 号の不思議をもまた信ぜざるなり。信ぜざれども、辺地懈 慢疑城胎宮にも往生して、果遂の願のゆへに、つゐに報土 に生ずるは、名号不思議のちからなり。これすなはち、誓願 不思議のゆへなれば、ただひとつなるべし。


  • 第十一条 要 旨
 この条にしるす異義は、「誓名別信」と称する。そ の異義の内容は、誓願不思議と名号不思議とを区別して、 誓願の不思議を信ずるものは、浄土に生まれることができ るが、名号の不思議を信じて、仏の名をとなえるものは、 それは自力であって、真実の浄土には生まれないで、浄土 の辺地である化土に行くことになるという主張である。

 この「誓名別信」は、念仏を軽んじ信心を強調している ので、一念気義の系統に属する異義と思われる。一念義とは 多念義にたいする言葉で、多念とは、念仏を多くとなえて その功徳によって浄土に生まれようとするものであり、一 念とは、ただ一声の念仏、一念の信心であっても浄土に生 まれることができると、多念を軽視する考えである。すで に法然の時代に両派に分かれて、さかんに論争している。

 誓願と名号とを分ける考え方について、それは誤りで、 誓願をはなれた名号もなく、名号をはなれた誓願もないこ とを、厳しく戒めている。