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浄土真宗の歴史に学ぶ
(仏教研修会 第361回) 2004/06/27
千葉 乗隆
『歎異抄』が語る親鸞聖人24   

  1. 『歎異抄』の第十五条

  • 第十五条 現代語訳

 さまざまの煩悩をもつ身でありながら、この世でさとりを開くということについて。
 このことは、とんでもないことで、まったく誤った考えです。
 この身のままで仏になるというのは、弘法大師空海が伝えた真言密教の教えの根本で、 身と口と意をはたらかせて、さまざまの厳しい修行をつみかさねて煩悩をとりのぞいた結 果に得られるものです。また心身を浄らかに保つことは、伝教大師最澄が伝えた天台宗の 教えで、これまた『法華経』に説いてある四安楽の行、すなわち身安楽行口安楽行意安楽行誓願安楽行という四つの行で、身・口・意を清浄にたもち、生きとし生けるもの すべてをさとりに導く願いをおこすことを達成して得られるものです。これらはすべて、 たいへん難しい行ですから、能力のあるすぐれた人が、精神を統一して苦行にはげむこと によって得られるさとりです。

 このような、この世でさとりを得ようとする自力聖道門にたいして、来世でさとりを開 くというのが他力浄土門の教えです。阿弥陀さまの救いを信ずる心がおこったときに、浄 土に生まれることが定まります。これは能力の劣った人のための修めやすい教えで、善人 も悪人もわけへだてなく救われます。

 およそ、この世で煩悩や悪障を断ち切ることはきわめて難しいことで、真言宗や天台宗 で修行する立派な僧であっても、やはり来世においてさとりを開くことを祈ります。まし て戒律を守って厳しい修行をすることもなく、仏法を理解する能力もないわたしどもが、 この世でさとりを開くことなど、とてもできません。しかし、そのようなわたしでも、阿 弥陀さまの本願の船に乗って、この世の苦しみに満ちた迷いの海をわたり、浄土の岸に着 いたならば、煩悩の雲はたちまちに晴れ、さとりの月が速やかにあらわれて、なにものに もさまたげられることなく、あらゆる世界を照らす阿弥陀さまの光と一つになり、すべて のいのちあるものを救うことができます。そのときに、さとりを開いたといえます。  この世でさとりを開くことができるという人は、お釈迦さまのように、人びとを救うた めにさまざまに姿をかえてあらわれ、三十二・八十随形好という特徴をそなえて、教え を説き人びとを救うことが果たしてできるのでしょうか。このようなことができる人こそ、 この世でさとりを開いたということができます。

 親鸞聖人が作られた 『高僧和讃』 に、
  金剛堅固の信心の さだまるときをまちえてぞ
  弥陀の心光摂護して ながく生死をへだてける

  (金剛石〔ダイヤモンド〕 のように、壊れることのない固い信心が定まったそのときに、 阿弥陀仏の、おさめとって捨てないという慈悲の光明に護られて、ふたたび迷いの世界 にたちかえることは決してありません。)

とあるように、わたしたちの信心が定まったそのときに、阿弥陀さまはおさめとってお捨 てにならないのですから、もう迷いの世界を生まれかわり死にかわりして輪廻することは ありません。したがって、永遠に迷いの世界とは絶縁したのです。しかし、このように承 知することがさとりを開くことと同じであると混同して考えるならば、それは大きな誤り で、嘆かわしいことです。「浄土真宗の教えは、この世において阿弥陀さまの本願を信じ て、浄土に生まれてさとりを開くのであるということを、法然聖人から教えていただきま した」と、今は亡き親鸞聖人は仰せになりました。

  • 第十五条 原文
一 煩悩具足の身をもつて、すでにさとりをひらくといふこ と。この条、もつてのほかのことにさふらう。

 即身成仏は、真言秘教本意三蜜行業の証果なり。六根 清浄は、また、法花一乗の所説、四安楽の行の感徳なり。 これみな、難行上根のつとめ観念成就のさとりなり。来生 の開覚は、他力浄土の宗旨、信心決定の通故なり。これまた、 易行下根のつとめ不簡善悪の法なり。

 おほよそ、今生においては、煩悩・悪障を断ぜんこと、き はめてありがたきあひだ、真言、法花を行ずる浄侶。なをも つて、順次生がさとりをいのる。いかにいはんや、戒行・恵 解ともになしといへども、弥陀の願船に乗じて、生死の苦海 をわたり、報土のきしにつきぬるものならば、煩悩の黒雲は やくはれ、法性が覚月すみやかにあらはれて、尽十方の無碍 の光明に一味にして、一切の衆(生)を利益せんときにこそ、 さとりにてはさふらへ。

 この身をもつてさとりをひらくとさふらうなるひとは、釈 尊のごとく、種々の応化の身をも現じ、三十二相・八十随 形好も具足して、説法利益さふらうにや。これをこそ、今 生にさとりをひらくとはまふしさふらへ。

和讃」にいはく、「金剛堅固の信心の、さだまるときをま ちえてぞ、弥陀の心光摂護して、ながく生死をへだてける」 とはさふらうは、信心のさだまるときに、ひとたび摂取して すてたまはざれば、六道に輪廻すべからず。しかれば、なが く、生死をばへだてさふらうぞかし。かくのごとくしるを、 さとるとはいひまぎらかすべきや。あはれにさふらうをや。 「浄土真宗には、今生に本願を信じて、かの土にしてさとり をばひらくとならひさふらうぞ」とこそ、故聖人のおほせに はさふらひしか。

  • 第十五条 要旨
 この条には、「即身成仏]の異義を批判する。即身 成仏とは、この身のままで仏になるということである。

 しかし、本条の結論にあるよう、「浄土真宗には、今生 に本願を信じて、かの土にしてさとりをばひらく」のであ つて、この世で生きているかぎりは、あいかわらず煩悩の さかんな凡夫であることに変わりはない。そのようなわが 身のほどをわきまえず、仏になることができるなどと考え るのは、もってのほかのことであると、厳しく戒めている。

 この即身成仏の異義が生まれる背景には、つぎのような ことが考えられる。それは、善鸞事件のとき、親鸞は手紙 の中に、「まことの信心の人をば、諸仏とひとしと申すな り。また補処の弥勒とおなじとも申すなり」としるし、信 心を得た念仏者は、如来や弥勒菩薩と等しいと説いた。こ のことを即身成仏と誤解したのであった。