第370回 このページ第369回 第368回 第367回 第366回 第365回 第364回 第363回 第362回 第361回 第360回 第359回 第358回 第357回 第356回 第355回 第354回 第353回 第352回 第351回 第350回 第349回 第348回 第347回 第346回 第345回 第344回 第343回 第342回 第341回 第340回 第339回 第338回 第337回 第336回 第335回 <安楽寺HOME>
浄土真宗の歴史に学ぶ
(仏教研修会 第369回) 2005/3/25
千葉 乗隆
『歎異抄』が語る親鸞聖人32   

  1. 『歎異抄』の付録 流罪記録 次回の第370回においても 今回に続き「奥書」について記述します

  • 付録 流罪記録 現代語訳
  後鳥羽上皇が政治を執っておられたとき、法然上人は他力本願念仏宗を興し広められま した。そのとき、奈良の興福寺の僧たちが、聖人は仏の教えにそむくものとして、朝廷に 訴えました。そのうえ聖人のお弟子のなかに無法な行いをする者がいると、無実のうわさ をたてられて、罪人として処罰された人々の数は次のとおりです。

一 法然聖人ならびにそのお弟子七人は流罪になり、また四人のお弟子は死罪に処せられ  ました。法然聖人は土佐の国の幡多というところへ流罪になり、罪人としての名は藤井元彦、男性、年齢七十六歳です。

  親鸞は、越後の国に流罪となり、罪人としての名は藤井善信といいます。年齢は三十五歳です。

  浄聞房は、備後の国。澄西禅光房は、伯耆の国。
  好覚房は、伊豆の国。行空法本房は、佐渡の国に、それぞれ流罪となりました。
  幸西成覚房善恵房の二人は、同じく流罪と決まっていましたが、比叡山無動寺の善題 大僧正(慈鎮和尚)が身柄をひきうけ、流罪をまぬがれました。

  死罪に処せられた人びとは、
  一 善綽房西意、二 性願房、三 住蓮房、四 安楽房でした。

  これらの刑は二位法印尊長の裁定です。

  親鸞は、流罪になったとき、僧侶の身分をとりあげられて、俗名をあたえられました。そ こで僧侶でもなく俗人でもない身となりました。ここにおいて、禿の字を自分の姓とし、 そのことを朝廷に申しでて認められました。そのとき申しでた文書が、いまも外記庁に保 管してあるといいます。流罪の後は、愚禿親鸞 (愚かな未熟者の親鸞)と、自分の名をお 書きになりました。
〔奥書〕 付録 流罪記録 現代語訳 次回の第370回にて今回に続き「奥書」について記述します
  この『歎異抄』は、浄土真宗にとって、大切な聖教です。仏法に縁のない人には、安易 に見せてはいけません。
                                釈蓮如(花押)
  • 付録 流罪記録 原文
  後鳥羽院之御宇、法然聖人、他力本願念仏宗を興行す。 于時興福寺僧侶敵奏之上、御弟子中、狼籍子細 あるよし、無実風聞によりて、罪科に処せらるる人数事

一 法然聖人并御弟子七人、流罪。又、御弟子四人、 死罪におこなはるるなり。聖人(法然)は土佐国幡多とい ふ所へ流罪、罪名、藤井元彦、男云々、生年七十六歳なり。

親鸞は越後国、罪名、藤井善信云々、生年三十五歳なり。 淨聞房 備後国澄西禅光房 伯耆国

好覚房 伊豆 国。 行空法本房 佐渡国。 幸西成覚房・善恵房二人、 同遠流に定まる。然るに無動寺の善題大僧正、これを申し あづかると云々。遠流之人々、已上八人なりと云々。

 被行死罪人々
 一番 西意善綽房
 二番 性願房
 三番 住蓮房
 四番 安楽房
 二位法印尊長之沙汰也。

  親鸞改僧儀俗名非僧非俗 、然間以禿字為姓被経奏聞了。彼御申状、于今外記庁納ト 云々。流罪以後、愚禿親鸞令書給也。

  • 付録 流罪記録 訓読
  後鳥羽院の御宇、法然聖人、他力本願念仏宗を興行す。と きに、興福寺の僧侶、敵奏のうへ、御弟子のうち、狼籍子細 あるよし、無実の風聞によりて罪科に処せらるる人数のこと。

一 法然聖人ならびに御弟子七人、流罪。また御弟子四人、 死罪におこなはるるなり。聖人(法然)は土佐国幡多とい ふ所へ流罪、罪名、藤井元彦、男云々、生年七十六歳なり。 親鸞は越後国、罪名、藤井善信云々、生年三十五歳なり。 淨聞房 備後国澄西禅光房 伯耆国好覚房 伊豆 国。 行空法本房 佐渡国。 幸西成覚房・善恵房二人、 同遠流に定まる。然るに無動寺の善題大僧正、これを申し あづかると云々。遠流の人々、已上八人なりと云々。

 死罪に行はるる人々、

 一番 西意善綽房
 二番 性願房
 三番 住蓮房
 四番 安楽房

 二位法印尊長の沙汰なり。

  親鸞、僧儀を改めて、俗名を賜ふ。よつて僧にあらず俗に あらず、しかるあひだ、禿の字をもつて姓となして、奏聞を 経られをはんぬ。かの御申し状、いまに外記庁が納まると 云々。流罪以後、愚禿親鸞と書かしめたまふなり。

  • 付録 流罪記録 解説
  付録にしるされているのは、承元元年(一二〇七) に朝廷によって専修念仏が停止され、法然と親鸞等門下の 人びとが流罪あるいは死罪になった記録である。『歎異抄』 とは直接かかわりのない内容なので、古写本のなかには、 これを収録しないものもある。

  なぜこのような「承元の法難」の記録をここに載せたの であろうか。

 『歎異抄』と同じ頃に編集された『親鸞聖人血脈文集』 の巻末にも、「承元の法難」の記事を載せている。

 『親鸞聖人血脈文集』は、親鸞が横曽根門徒の性信と慶西 に宛てた手紙五通を掲載し、そのあとに流罪の記録を収載 している。つづいて『教行信証』にしるす、親鸞が法然か ら『選択集』の書写と法然影像の作製を許されたことを述 べ、この法然影像等を親鸞から性信が譲り受けたとしるし ている。

  このことは、浄土真宗の教えが、法然、親鸞、性信へと うけつがれたことを示すためで、横曽根門徒の法流の正統 性を主張する意図がこめられていたとみられる。『歎異抄』 にも、唯円が編集した当初には、親鸞から唯円への法統の 継承を示す文書が掲げられていたのかもしれない。しかし、 そのような文書がなくても、唯円が親鸞の教えをうけつぐ ものであることは、『歎異抄』の本文において明らかであ る。

  なお、流罪記録を掲げたいまひとつの理由は、当時、各 種の法然の伝記が著されていたが、その中に親鸞の名は見 えない。そこで、親鸞は法然と共に流罪に処せられた法然 門下の高弟であることを示そうとしたとも考えられる。そ して、『歎異抄』の後記に、法然の信心も親鸞の信心も同 じであったという「信心一異」の論争をしるしているのも、 親鸞が法然の教えの継承者であることを示したものといえ よう。
  • 〔奥書〕 付録 流罪記録 原文 次回の第370回にて今回に続き「奥書」について記述します

右斯聖教者、為当流大事聖教也。於無宿善機、無左右 不可許之者也。
                 釈蓮如(花押)

右この聖教は、当流大事の聖教となすなり。無宿善の機に おいては、左右なく、これを許すべからざるものなり。
                 釈蓮如(花押)
   ひそかにおもんみれば、しようどうのしよきようはぎようしようひさしくすたれじようどの
  ひそかにおもんみれば、聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の
しんしゆうはしようどういまさかんなり。しょじのしゃくもん、きようにくらくしてしんけのもん
真宗は証道いま盛んなり。しかるに諸寺の釈門、教に昏くして 真仮の門
こをしらず、らくとのじゆりん、ぎようにまどひてじやしようのどうろをわきまふることなし。こ
戸を知らず、洛都の儒林、行に迷ひて邪正の道路を弁ふることなし。こ
こをもつて、こうぶくじのがくと、だじようてんのうごとばのいんとごうす、いみなたかひらきんじよう
こをもつて、興福寺の学徒、太上天皇 後鳥羽院と号す、諱尊成  今上
つちみかどのいんとごうす、いみなためひとせいれき、じようげんひのとのうのとし、ちゆうしゆんじようじゆんのこうにそう
土御門院と号す、諱為仁聖暦、承元丁卯の歳、仲春上旬の候に奏
たつす。しゆじようしんか、ほうにそむきぎにいし、いかいりをなしうらみをむすぶ。これによ
達す。主上臣下、法に背き義に違し、忿りを成し怨みを結ぶ。これによ
りて、しんしゆうこうりゆうのたいそげんくうほつしならびにもんとすはい、ざいかをかんがへず、みだり
りて、真宗興隆の大祖源空法師ならびに門徒数輩、罪科を考へず、 猥り
がはしくしざいにつみす。あるいはそうぎをあらためてしようみようをたもうておんるにしよす。
がはしく死罪に坐す。あるいは僧儀を改めて姓名を賜うて遠流に処す。
よはそのひとつなり。しかれば、すでにそうにあらず。ぞくにあらず。このゆゑに
予はその一つなり。しかれば、すでに僧にあらず俗にあらず。このゆゑに
とくのじをもつてしようとす。くうし(げんくう)ならびにでしら。、しよほうのへんしゆうにつみし
禿の字をもつて姓とす。空師(源空)ならびに弟子等、諸方の辺州に坐し
てごねんのきよしよをへたりき。こうていさどのいん、いみなもりなりせいだい、けんりやくかのとのひつじ
て五年の居諸を経たりき。皇帝 佐渡院、諱守成 聖代、建暦辛未の
とし、しげつのちゆうじゆんだいしちにちに、ちよくめんをかぶりてじゆらくしていご、くう(げんくう)、らく
歳、子月の中旬第七日に、勅免を蒙りて入洛して以後、空(源空)、洛
ようのひがしやまのにしのふもと、とりべののきたのほとり、おおたににいたまひき。おなじきにねん
陽の東山の西の麓、鳥部野の北の辺、大谷に居たまひき。同じき二年
みずのえさるいんがつのげじゆんだいごにちうまのときにゆうめつしたまふ。きずいしようげすべからず。
壬申寅月の下旬第五日午時に入滅したまふ。奇瑞称計すべからず。
べつでんにみえたり。
別伝に見えたり。
  • 法然:円光大師(1133から1212) 流罪記録では土佐の国幡多への流罪と記録されているが  広辞苑では1207年(承元元年)讃岐へ流罪となり同年末に許されたと記載されている これは 高齢であったこと 海を渡ったと言う実績によるものではないか考えられる
  • 教行信証:浄土真宗の教義の根本を述べた書。親鸞の撰。教・行・信・証・真仏土・化身土の6巻から成る。1224年(元仁元年)頃、初稿が成立。詳しくは「顯浄土真実教行証文類」。以上広辞苑より

  • 親鸞:見真大師(1173から1262)