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浄土真宗の歴史に学ぶ
(仏教研修会 第381回) 2006/4/23
千葉 乗隆

  1. 非僧非俗・愚禿親鸞 僧でもない、俗人でもない、愚かな親鸞
 僧が罪を犯したときは、俗人にかえして処罰するという慣例によって、法然上人は藤井元彦、親鸞聖人は藤井善信という名前に改めて流罪に処せられた。

 親鸞聖人は「承元の法難」で俗人になって処罰された事について『教行 信証』の中に、「しかればすでに僧にあらず、俗にあらず。このゆえに 禿の字をもって姓とす」としるしている。

 このたびの事件で僧籍を奪われて僧でなくなったのは事実である。し かし、親鸞聖人はすでに自ら戒をすて妻をめとり子をもうける非僧の生活を 選んでいた。それゆえ処罰される以前に「すでに僧にあらず」の立場に あった。

 また「俗にあらず」とは、世俗の職業について生活する単なる俗人で もないということである。世俗の生活の中に、念仏によって生かされる 道を歩みつつ、人びとにもそれを伝えようということで、世俗の生活が そのまま仏道となることを示したのであった。

 禿は「かぶろ」、おかっぱ頭の子供で、未熟者のこと。親鸞聖人が愚禿を 姓としたのは、自分のような愚かな未熟者を救ってくださるのが阿弥陀 仏であることを示したのだった。

 その昔、最澄(伝教大師)が比叡山に入山したときの願文に「愚中極愚狂中極狂塵禿有情底下最澄(わたしは愚か者の中でも最も愚かな人間 である。わたしは正常でなく狂っている。しかもそれは最悪である。わ たしは塵のようにふわふわした未熟な人間である。このような欠陥だら けの最低の人間がわたくし最澄である)」と、深く自己の本性を反省し た。親鸞聖人は最澄の愚禿の原点にたちかえって、専修念仏に愚禿の生かさ れる道を見出したのであった。
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以下にテキストの右ページ部分を記載します
  1. 越後における親鸞聖人の生活
 私(親鸞聖人)は子供と同じ未熟な人間だ


 越後における7年間の親鸞聖人の流人としての生活をしるした記録は残 っていない。それは非僧非俗の愚禿の生活の中で、念仏をたしなみ 信を深める思索の期間であったと思われる。越後の風土、すなわち 雪に閉じ込められ荒れ狂う北海のはげしい風を耐え忍ぶ厳冬の半年 と、緑にさえわたる頸城平野に座って、さわやかな妙高山の連峰を ながめる、明と暗の月日を過ごすなかで、念仏による救いを、より 強く親鸞聖人は感じたことであろう。

767年
 近江(滋賀県)に生まれる。
780年
 14歳のとき国分寺で得度。
785年
 18歳のとき奈良東大寺で受戒(僧として守るべきことを誓う)。同年 7月日枝山(比叡山)に草庵をいと なみ、ここで入山の願文を作った。
788年
 山上に寺を建て比叡山寺といった。
804年
 中国(唐)に行き、天台を学び翌年帰国。
806年
 天台法華宗を創立し、国家に認められる。
822年
 没。
866年
 諡 伝教大師 日本初の大師号。