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京都に帰る 帰京の目的は『教行信証』の完成と著述
帰京した年時ははっきりしないが、親鸞聖人が63歳の嘉禎元年(1235)に
鎌倉で一切経の校合を行っているので、それ以後のこと。
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鎌倉幕府の執権北条泰時の願いで、一切経五千余巻の書写が行われ
た。これは源頼朝の妻北条政子の十三回忌の供養であった。この書き写
した経典に誤りがないかどうか原本と照らし合わせる作業を校合とい
い、多くの僧が携わったが、親鸞聖人もそれに参加した。
この作業の折に、魚や鳥肉の料理が出た。親鸞聖人だけは袈裟を着けたま
ま食事をした。その理由を尋ねられると、「犠牲になった魚や獣を救い
たいと思うが、私には救う力はない。袈裟は仏のさとりを示す霊服であ
るから、これを着けて食事をすると彼らを救ってやれるかもしれない」
と答えたという。親鸞聖人は人間だけでなく動植物など生きるものすべてを
視野に入れて、仏法を説いたのであった。
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親鸞聖人は「弟子一人ももたず」といい、人の師となることを避けてきた。
しかし、長い間の伝道の結果、念仏者が増加し、いつしか大集団の中心
人物になっていた。その念仏集団では、他宗教と対立が発生するととも
に、内部では信者の奪い合いをしたり、教えを誤って理解する人もいた。
このように肥大化した念仏集団の中心から離れたところで、事態への対
応をはかろうとして京都に帰ったとも考えられる。それとともに、常陸
にいた時から執筆をはじめた『教行信証』の完成、師匠法然上人の伝記であ
る『西方指南抄』の編集と、さらに日頃心中に抱いていた思いを書き
とめたいとの願いを果たすために京都に帰ったのであろう。
帰京した親鸞聖人は、東国の門弟たちに手紙を書いてその問いに答えたり、
指示を出したりして教化した。
以下にテキストの右ページ部分を記載します
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箱根の山をこえて帰京
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有力な政治権力者(天皇・将軍)が死ん
だとき、死後の幸福を願って『一切経』
を書写することがあった。しかし、書
写は大変な作業だったので、普通は転
読が行われた。それは経文の初めと中
ごろと終わりの数行だけを読む場合が
多かった。
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親鸞聖人は関東から京都に帰
る途中、明け方近くなっ
て箱根神社にたどりつい
た。年老いた神宮が迎え
に出てきた。そして神官
は親鸞聖人に「さきほど、夢
か、うつつかはつきりし
ませんが、箱根の神さま
があらわれて、わたしの
尊敬するお方が来られる
ので大切におもてなしし
なさいとお告げがありま
した。そのすぐあとに、
あなたがおいでになった
のです」といって、ていね
いにもてなしたという。
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校合作業の折の食事に、魚や鳥肉の料理が出た。親鸞聖人だけは袈裟を着けたまま食事をした時の会話
ある僧: どうしてあな
ただけ袈裟を
かけているの
ですか。
親鸞聖人: 私には魚や鳥を救う
力はありません。し
かし袈裟は仏のさと
りを示す霊服ですか
ら、彼らを救えるか
もしれません。
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承久三年(一二二一)朝廷と鎌倉幕府の間に起った争乱。鎌倉幕府の成立
によって打撃を受けた公家勢力は正治元年(一一九九) 源頼朝の死後頻出し
た有力御家人の反乱など幕府内部の混乱に乗じ、公家勢力の回復を企図、後
鳥羽上皇を中心として討幕の兵を挙げたが、北条政子・執権北条義時を中心
に団結した幕府軍に大敗。乱後、幕府は後鳥羽・土御門・順徳の三上皇の配
流、朝廷方公卿・武士の所領の没収と新補地頭の配置、京都監視のため六波
羅探題の設置などの施策によって著しく権力を強化、公家政権の勢力は急
速に衰えた。
承久元年: 将軍源実朝、殺される。
承久二年: 慈円、『愚管抄』を著わす。
承久三年: 聖覚、『唯信砂』を著わす。
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