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浄土にかえる 門弟たちは親鸞聖人を阿弥陀仏の生まれ変わりとあがめる
親鸞聖人の妻恵信尼さまは、常陸の下妻において、親鸞聖人は観音菩薩(阿弥陀仏の脇侍)の生まれ変わりであるとの夢をみる。以来、観音の化身と尊敬した。
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親鸞聖人の妻恵信尼さまは20年ほど京都で同居していたが、父の遺産の土地
などを相続するため越後へ行った。親鸞聖人の4男3女の子女のうち、2男2
女は越後に住み、京都には長男即生房と末娘覚信尼さまがとどまり、覚信尼さま
が晩年の親鸞聖人の身辺の世話をした。
親鸞聖人は死の16日ほど前、常陸の念仏者に宛て、覚信尼と即生房への支
援を求める遺言状を書いた。親鸞聖人の依頼は門弟たちの了解を得、以後2
人に対する支援が行われた。
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親鸞聖人は弘長2年(1262)11月28日に、90歳で京都の三条富小路の善法
坊(弟尋有の寺)で死去した。
臨終には、弟尋有、末娘覚信尼さまなど側近の人たち、また越後から子息
の益万入道がはせつけた。翌日29日の葬儀には下野高田の顕智、遠江池
田の専信などが参列し、東山の麓、鳥辺野の延仁寺で火葬にし、翌30日
遺骨を拾い、鳥辺野の北、大谷に墓を造り納骨した。
親鸞聖人の墓は、一基の墓石に柵をめぐらせた簡素なものである。その墓
の形は普通の五輪塔とは異なり、塔身が長く、横川様式といわれる墓で、
親鸞聖人が尊敬した源信和尚の墓形と同じである。
親鸞聖人は生前に、「私が死んだならば、この体は鴨川に流して魚の餌に
してください」といっていた。
しかし、遺族や門弟たちにとってそのようなことはできるはずもなく、
墓を立てたのであった。
以下にテキストの右ページ部分を記載します
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臨終の善悪をば申さず
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『親鸞聖人伝絵』によれば、門
弟蓮位は、聖徳太子が親鸞聖人を阿
弥陀仏の生まれ変わりだといっ
ておがんでいる様子を夢に見て
いらい、親鸞聖人は仏の化身だと思
って仕えた。同じく『伝絵』に
絵師の定禅が親鸞聖人を描こうとし
たとき、ある夜、夢にみた善光
寺の阿弥陀仏に親鸞聖人がそっくり
だったという話もみえる。親鸞聖人
の死は浄土への里がえりであった
念仏者の臨終はかならずしも安らかに念仏をとなえながらというこ
とにならない。病気のせいで苦しみながら死ぬこともある。しかし、
阿弥陀仏の救いを信じる人は、臨終がどのようであろうとも、浄土
に生まれることができる。
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親鸞聖人の遺言状本文
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このいまごぜんのははの、たのむかたもなく、そらうをもちて候はばこそ、譲りもし候はめ。せんしに候ひなば、くにの人々、いとほしうせさせたまふべく候ふ。この文を書く常陸の人々をたのみまゐらせて候へば、申しおきて、あはれみあはせたまふべく候ふ。この文をごらんあるべく候ふ。
このそくしやうばうも、すぐべきやうもなきものにて候へば、申しおくべきやうも候はず。身のかなはず、わびしう候ふことは、ただこのことおなじことにて候ふ。ときにこのそくしやうぼうにも、申しおかず候ふ。常陸の人々ばかりぞ、このものどもをも、御あはれみあはれ候ふべからん。いとほしう、人々あはれみおぼしめすべし。この文にて、人々おなじ御こころに候ふべし。あなかしこ、あなかしこ。
十一月十二日
ぜんしん(花押)
常陸の人々の御中へ
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