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浄土真宗の歴史に学ぶ
(仏教研修会 第391回) 2007/5/13
千葉 乗隆

  1. 荒木門徒の明光と了源 山陽・山陰・四国など西日本を教化
 武蔵の荒木門徒の流れをくむ明光とその門弟了源は、存覚の指導のもと、「名帳」「絵系図」を用い、近畿、西日本に教えを伝えた。

 明光(1286〜1353)は相模(神奈川県)鎌倉の甘縄の人、武蔵(東京都) 阿佐布了海(1239〜1320)の門弟であった。のち存覚に学び、中国地 方を教化した。彼の門弟慶円備後(広島県)山南に光照寺を建て、 ここが明光の伝道の拠点となった。

 暦応元年(1338)存覚は備後の真宗門徒の要請で法華宗徒と法論して これを論破し、真宗はますます盛んになったという。

 了源(1295〜1336)は京都山科に興正寺を建てた。のち寺を京都渋谷 に移し仏光寺と改めた。存覚の指導のもと、近畿・四国に活発な伝道を 行った。

 「名帳」は師弟の関係を系図の形で示した名簿で、「絵系図」は「名 帳」の人名にそれぞれの肖像を付け加えたものである。

 「絵系図」には序題(序文)があり、これを作る趣旨をしるしている。序題には、親鸞の教えを受け継ぐ門徒は多くに分かれたが、自分たちの信じる仏法は、親鸞・真仏・源海・了海・誓海・明光へと伝えられた。この伝統の仏法を力を合わせていつまでも守り伝えるために、さきに「名帳」を作った。今度、「絵系図」を作ったのは、同じ念仏に生かされ る者は、たがいに末永く仲良くし、教えを守りぬくためである、といっている。

 この「絵系図」には、親鸞等の先師の像は描かれていない。明光・了源・慶円など彼等がひきいる門徒の姿を写し、そして夫と妻の像が仲良く描かれている。

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以下にテキストの右ページ部分を記載します
  1. 真宗門徒の惣
 現存する絵系図の中で、京都の仏光寺、広島の光照寺と宝田院、滋賀の妙楽寺の4本の序題の筆者は存覚であるといわれ、「絵系図」の製 作に存覚が関係していたことが知られる。
絵系図 滋賀県光明寺
絵系図 滋賀県・光明寺
 
 滋賀県大津市堅田の本福寺に所蔵の記録(本福寺由来記)には「応永二十年(1413)のころ、渋谷仏光寺こそ名帳・絵系図のころにて、人民群集して、これにこぞる」と人びとが多く参っていた、いっぽう、大谷本願寺に参詣する人はなく、さびしい有様だったとしるされている。

 惣とは農民の自治組織につけられた名称で、室町時代に近畿の村で「守護不入(武士の保護は受けない)、自検断之所(自分の村は自分たちで守る)」ということで、村民は複数の指導者である(乙名)を選出し、村の運営に当たった。この農民組織の惣を真宗門徒の組織にとりいれて、門徒の結合に惣の名称がつけられた。このような門徒の惣をいち早くとりいれたのが明光である。
  1. 絵系図序題(仏光寺本山所蔵)
 右親鸞聖人ハ真宗ノ先達、一流ノ明徳ナリ、勧化都鄙ニアマネク、化導道 俗ヲカネタマヘリ、カノ御門徒アマタニアヒワカレタマヘルナカニ、予カ信 知シタテマツルトコロノ相承ハ、真仏・源海・了海・誓海・明光、コレナリ、 コヽニ了源カノ明光ノヲシヘヲタモチテ、ミツカラモ信シヒトヲシテモ行セ

シム、無智ノ身ナリトイヘトモ、仏法ヲアカムルココロアサカラス、愚鈍ノ 性ナリトイヘトモ、他力ヲアヲクオモヒ、フタコヽロナシ、シカルニ予カス ヽメヲウケテ、オナシク後世ヲネカヒ、トモニ念仏ヲ行スルトモカラ、ソノ カスマタオホシ、仏力ノ加被マコトニワタクシニアラサルモノヲヤ、コレニ

ヨリテ道場ヲカマヘテ本尊ヲ安シ、有縁ヲスヽメテ念仏ヲヒロムルタクヒ、 先年名字ヲシルシテ系図ヲサタムトイヘトモ、カネテイマコノ画図ヲアラハ ストコロナリ、コレスナハチ、カツハ次第相承ノ儀ヲタヽシクセシメンカタ メ、カツハ向一念仏ノヨシミヲオモフニヨリテ、現存ノトキヨリソノ面像ヲ
ウツシテ、スエノ世マテモソノカタミヲノコサントナリ、シカレハ、名字ヲ ワカ門徒ニツラネテ、コノ系図ニツラナルトモカラ、コトニ竪固ノ信心ヲサ キトシテ、身命ヲオシマサルコヽロヲヌキイテ、フカク仏法ニツカフルマコ トヲハケマスヘシ、仏法トイヒ、世間トイヒ、サラニ邪執ヲステ、随順ヲ本

トシテ、カタク門徒ノ衆議ヲマモリ、一流ノ儀ヲソムクヘカラス、カネテハ マタカノ門葉ノナカニ、惣ノユルサレヲカウフラスシテ、師匠ノ影像等ヲカ キタテマツルコト、ソノキコエアリ、タヽ他門ノ嘲ロウ(口偏に弄)ヲマネクノミニアラス、 マコトニ仏法ノ破滅トイヒツヘシ、向後ナカク停止スヘシ、モシ入滅ノヽチ、

教授ノ恩徳ヲオモヒ、ソノナコリヲシタハンヒトハ、コノ系図ニムカハンニ タリヌヘキモノナリ、ソノウヘニコヽロサシアラン行者ハ、惣ノナカニナケ カントキ、評議ヲクハヘテ、ソノユルサレアルヘキウヘハ、サラサラ自由ノ クハテヲトヽムヘシ、モシコノ制法ヲソムカンヤカラニオイテハ、ハヤクカ

ノ知識ノ沙汰トシテ、本尊聖教ヲカヘシオサメタテマツルヘシ、カツハ、条 々日コロ度々ノ置文二誓文等ヲノセテ、クハシクシルシヲキヲハンヌ、ユメ ユメ、違犯ノ儀アルへカラス、ナヲナヲカクノコトクサラメヲクコトハ、仏法 ヲシテ、ミナ一味ナラシメンカタメ、門徒ヲシテ混乱セシメサランカタメナ

リ、面々ノ行者、各々ノ門人、当時トイヒ、向後トイヒ、カタクコノムネヲ マモリテ、遺失ナカラシメンカタメニ、サタメヲクトコロ、クタンノコトシ、
  嘉暦元年丙寅五月 日