安楽寺 浄土真宗本願寺派 千葉山安楽寺
妙音 千葉山安楽寺機関誌 平成24(2012)年 妙音2012春版
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◎蓮師御正当法要 及び春季永代教法要のご案内
 法要ご案内蓮師御正当  特別永代経
年月日
平成二十四年四月二十二日(日)

 午前十一時
初参式
 午前十一時半
新規永代経開闢法要
 正午 法要勤修
 十二時半 法話
 午後一時 読み上げ 美馬市以外
 午後一時半 法話
 午後二時 読み上げ 旧脇町
 午後二時半 法話
 午後三時 読み上げ 旧美馬町
場所 安楽寺本堂(美馬市美馬町)
 昼食の用意を致しております。お早めにお越しください
◎蓮如上人
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 本願寺八代門主 中興の上人は
 お念仏の教えを全国に広められました。南都(奈良仏教界)或いは比叡山から弾圧を受け、京から北陸、山科・大阪へと本願寺は移転を余儀なくされました。

 ご事績として 御文章による布教 今でいう文書伝道 あなかしこで終わるお手紙 正信偈の勤行朝夕に正信偈を勤めるよう勧める大衆勤行を行われました

 本願寺門主・僧侶・門徒が共に法要を営む。導師に合わせて共に合掌礼拝をいたします。声に出して耳に聞きます。

◎平成14(2012)年初参式 参加者募集
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 平成23(2012)年にお誕生の赤ちゃんを 阿弥陀様にご報告しましょう
 四月二十二日(日)午前11時までにお越しください
 安楽寺本堂集合です
 申込は、平成24年4月20日までにお寺へお申し込み下さい 御門徒に限らずどなたでもお申し込み下さい
 安楽寺まで  0883(63)2015
 一人につき 一千円です
 記念品・昼食を用意しています
 写真は昨年(2011)初参式の模様です

◎親鸞聖人七百五十回大遠忌法要 満座法要 平成24(2012)/01/16
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 本願寺御影堂の内敷も新調された模様、ご門主様・新門様ご親修 最高の出勤者で勤められました。安楽寺からは住職 副住職共に出勤いたしました。家族もそろってお参りいたしました。
 感激の涙と共に参りました。この場に乘驍ェおればと思うと残念でなりませんでした
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 御門主様 新門様 ご親修
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 千葉山安楽寺副住職 出勤
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 大太鼓は健在でした。ご門主は消息を発布されました。次の50年に向けて新しい出発です。心新たに励みましょう。

◎婦徳会からのお知らせ
 徳島県仏教婦人会大会
日時  平成24年6月29日(金) 午前10時始
場所  ザ・ディスティーノ(脇町)
参加費  一名 2000円(昼食費含む)
講師  釈 徹宗 師
講題  1、初心者のための仏教
 2、初心者のための浄土真宗
 
【プロフィール】  釈 徹宗 師
 1961年生まれ。大阪府立大学大学院人間文化学研究科 比較文化専攻博士過程修了。学術博士。現在、龍谷大学、相愛大学の講師をしつつ、大阪府池田市にある浄土真宗本願寺派如来寺に所属。わかりやすい語り口で仏教の本質を説明してくれる。
 主著に『親鸞の思想構造』(法蔵館、2002 年)。
 婦徳会 清掃奉仕4月8日第2日曜日 午前八時集合

◎中堀慎治画伯のご活躍
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 中堀慎治画伯は、京都で、観光(かんひかり)を主催され多忙を極めておられます。
 泉涌寺にてご夫妻と共に。
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 ライオンは、泉涌寺に展示。
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 龍は二条城に展示。

 これらの作品は間もなく安楽寺にやってきます。

 なお 中堀画伯の安楽寺でのご尽力は天井画 ふすま絵のページに掲載しています

◎親鸞聖人御一代 第十一回
○親鸞聖人の生涯
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 写真は親鸞聖人伝絵より「」

 聖人は、みずからを虚仮不実の清浄心なき愚かな人間、すなわち凡夫であるといっている。この「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫」という考えは、念仏門に入っていらい、その生涯を貫く姿勢であった。悟りへの行を修することのできぬ凡夫が、在家の姿そのままで救われる道を、自ら歩むとともに人々に示したのであった。

 その聖人にとって、ともに念仏するものは、みな仏弟子で同行・同朋であった。それゆえ、「親鸞は弟子一人ももたず候」といって自ら師となることを否定し、「弥陀の御もよおしにあずかって念仏申し候ふひとを、我が弟子と申すこと、きわめたる荒涼のことなり」といっている。これは、曇鸞の「同一に念仏して、別に道なきがゆゑに、遠く通ずるに、それ四海のうちみな兄弟とするなり」を受け継ぐものであった。

 覚如の口伝抄には、聖人の門弟の常陸国新堤の信楽が、教えに背いたとき、聖人の侍僧蓮位が、信楽に与えられた本尊や・聖教を、取り戻されてはいかがですかと、進言したときに、聖人は、「本尊や・聖教を返還させることはすべきでない、念仏の法は、この親鸞が授けたものでなく、仏よりたまわったものである。

 親鸞は、弟子一人もおらず、みな仏の弟子である。本尊や・聖教は人々を教化するために、仏のおぼしめしによって、私が仮にあたえたものであって、この親鸞のものではない。したがって、信楽が私にそむいたからといって、それを取り戻すべきではない。もしも信楽が仮に本尊・聖教を山野に捨てたとしても、その所の有情群類(いきとしいくるもの)が、その聖教に救われることになる。」といったと伝えられている。

 地球上の全生物のいのちの尊さと、彼らとの共存に留意していたことが知られている。自らの信をひろく人々に分かち合おうという、聖人の熱心な伝道によって、東国における念仏の輪は次第に大きくなっていった。その念仏の集団では、源空聖人の命日である二十五日に、毎月集会を開くなど定期的な行事も開かれるようになった。東国念仏者の集いは、農民庶民などいわゆる民衆でしめられていた。

 聖人在世中の念仏者の正確な数は把握できないが、「交名帳」によってうかがい知れる。これは、聖人示寂後、放浪して念仏を広める一団があり、社会秩序を乱すとして幕府から取り締まりを受けたとき、聖人の門流はそうした集団とは違うことを、幕府に申し立てるための添付名簿である。交名帳に見られる国別人数は、常陸二十・下総五・下野五・武蔵一・陸奥七・越後一・遠江一・京都八の計四十八人が直接聖人から教えを受けた者として記載されている。

 親鸞聖人は京に帰られるが、関東では、真仏・顕智の高田門徒、性信の横曽根門徒など、門徒が教団を形成してゆく。