恵信尼消息
(連載第01回 仏教婦人会総連盟 めぐみ 第182号 2003/06 夏)
千葉 乗隆
安楽寺 浄土真宗本願寺派 千葉山安楽寺
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◎恵信尼消息 第一通 その一
なお第一通は第1、2、3回の三回に亘り連載します
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まえがき
現代語訳
解説
本文(原文)
読者の声
まえがきの変更
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○【まえがき】
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親鸞聖人の内室、恵信尼さまが弘長三年(一二六三)八十二歳のときから文永五年(一二六八)八十七歳のときまで六年間にわたって、そのころ住んでおられた越後(新潟県)から、京都の末娘の覚信尼さまに宛てて書き送られたお手紙が八通あります。
最初の四通は、覚信尼さまが聖人のご往生をお知らせしたとき、聖人のことを回想された内容です。
他の四通には恵信尼さまの晩年のもようがしるされています。
この八通のお手紙のほか、譲状が二通と『大無量寿経』の音読仮名書があり、これらは鎌倉時代の女性の手になる貴重な文献として、国の重要文化財に指定されています。
ここでは第一通から第五通までのお手紙の内容を解説いたします。
(注:まえがきの変更について)
お手紙は漢字まじりの平仮名でしるされていますが、平仮名を漢字で表記するなど、読みやすく解読した『浄土真宗聖典』(註釈版)に収録したものを「本文」とし、これを「現代語訳」し、さらにそれを「解説」するという順序で記述したいと思います。 なお、第一通は長文ですので、三回に分けて解説いたします。
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○【現代語訳】 恵信尼消息 第一通 その一
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昨年(弘長二年)十二月一日付のあなたのお手紙は、同月の二十日すぎに、たしかに拝見いたしました。なによりもまず、殿(親鸞聖人)がお浄土へご往生になられたことは確かで、それについては、あらためて申すことは何もございません。
そのむかし、殿が比叡山をおりられて京都の六角堂に百日の間おこもりになり、後世のたすかる道を求め願われたとき、ちょうど九十五日目の明け方に、夢のなかに、聖徳太子が現われ偈文をとなえられて、行くべ
き道をお示しくださいました。そこでその早朝に、後世のたすかる法縁にあわせていただこうと、法然上人のもとを訪ねられ、上人にお会いになりました。そして、六角堂に百
日間おこもりになられたときのように、また百日の間、雨の降る日も、晴れた日も、またどのような大風が吹こうとも、上人のもとにお通いになり、仏法を聴聞されました。そして、上人から、後世のことについては善人であろうと悪人であろうとも、みな同様
に、この迷いの世界からのがれるには、ただお念仏をとなえるよりほかないのだということをお聞かせいただき、その上人のお言葉を堅く信じておられました。そこで「法然上人のおいでになるところへは、他人はどのように申されようとも、それがたとえ地獄であ
っても、お供をします。それは、自分は遠い過去から今日まで、ずっと迷いの世界をさまよってきた身ですから、たとえ地獄におちたとしても、もともとのことであると私は思っています」と、人がお念仏についていろいろ申しましたとき、このように仰せになられました。
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○【解説】 恵信尼消息 第一通 その一
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親鸞聖人は弘長二年(一二六二)十一月二十八日、九十歳でご往生になりました十一月二十九日ご葬儀、三十日ご拾骨を終えた翌日、十二月一日に、覚信尼さまはこのことを越後の恵信尼さまにお手紙を書き、お知らせしました。
覚信尼さまのお手紙の内容はわかりませんが、恵信尼さまのご返事のはじめに「殿がお浄土へご往生されたことは確かです」とあり、さらにこのお手紙の末尾に「殿のご臨終がどのようにあられましても、お浄土にご往生されたことは間違いないと堅く信じています」としるされています。
こうした恵信尼さまのお手紙のはじめと終わりの文から推察しますと、覚信尼さまは、聖人はご臨終には尊くめでたいご往生をさ
れると思っておられたようです。しかし、聖人は病気のせいで苦しみながら亡くなられたのかもしれません。このことを恵信尼さまに宛てたお手紙にしるし、「あのようなご臨終で、お父上さまはほんとうにお浄土にご往生されたのでしょうか」と心中の不審を訴えられたようです。
恵信尼さまはこのお手紙をみて、ご返書の最初と末尾に、聖人が浄土に往生されたことは間違いないとしるされ、その理由として、聖人が法然上人のもとで、念仏によって浄土に往生する道を選ばれたこと、聖人は観音さまの化身であるとの夢をみたことなどを述べて、聖人が浄土にご往生になられたことは間違いないと強調しておられます。
臨終のありようについて、親鸞聖人は八十八歳の文応元年(一二六〇)十一月十三日付の常陸(茨城県)奥郡の乗信房に宛てたお手紙(『親鸞聖人御消息』一六)の中に「善信(親鸞)が身には、臨終の善悪をば申さず、信心決定のとは、疑なければ正定聚に住することにて候ふなり」(『同』・771頁)としるされています。
また『歎異抄』(第十四条)に親鸞聖人は、
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業報かぎりあることなれば、いかなる不思議のことにもあひ、また病悩苦痛せめて、正念に住せずしてをはらん、念仏申すことかたし。そのあひだの罪をば、いかがして滅すべきや。罪消えざれば、往生はかなふべからざるか。摂取不捨の願をたのみたてまつらば、いかなる不思議ありて、罪業ををかし、念仏申さずしてをはるとも、すみやかに往生をとぐべし。(「同」・846頁)
と仰せられ、阿弥陀仏の摂取不捨の願をたのみたてまつるものは、臨終の善悪にかかわりなく、かならず浄土に生まれることができると強調しておられます。
ついでお手紙には、親鸞聖人が法然上人
の門下に参入されたいきさつをしるしています。
聖人は二十年にわたって比叡山で自力聖道の教えをけんめいに修行されましたが、お悟りを得ることができず、六角堂に百日参籠して、今後の歩むべき道についての指示を求めました。そして聖徳太子の示現の文を得て、他力念仏の教えを説かれる法然上人のもとをたずねられました。
このとき太子がお示しになった文の内容は
明らかではありませんが、「聖徳太子廟窟
偈」であると思います。この偈文には浄土教によって救われることが説かれています。
後年、聖人は 「皇太子聖徳奉讃」に、
聖徳皇のあはれみて
仏智不思議の誓願に
すすめいれしめたまひてぞ
住正定聚の身となれる
(『同』・615頁)
と詠まれたのは、六角堂参籠のときの太子示現の恩を感謝されたものだと思います。
さらにお手紙には、法然上人のもとに百日聴聞に通われたことを回想されています。それは降雨・日照・大風をいとわずということですから、六月の梅雨、七月の酷暑、八月の台風の季節であろうと推測されます。もしそうだとすれば、聖人が六角堂に参籠されたのは、それ以前の三・四・五月の三か月ということになります。
ついで、法然上人のもとで念仏によって救われる身になられた聖人の心中をしるしておられます。その内容は「現代語訳」に示した通りですが、このときのことを『歎異抄』(第二条)には、つぎのような言葉で表現しておられます。
親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。稔じてもつて存知せざるなり。たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ。そのゆゑは、自余の行もはげみて仏に成るべかりける身が、念仏を申して地獄にもおちて候はばこそ、すかされたてまつりてといふ後悔も候はめ。いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。 (『同』・832頁)
親鸞聖人は、地獄におちるよりほかないだめな自分には、法然上人の示されるお念仏だけが、自分にあたえられたただひとつの道であったことにお気づきになられたのでした。聖人はその聖道門から浄土門にいたられた経緯を恵信尼さまに語られ、さらにそのことを恵信尼さまは覚信尼さまに宛てたお手紙にしるされたのでした。
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○【本文】 恵信尼消息 第一通 その一 原文
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去年の十二月一日の御文、同二十日あまりに、たしかにみ候ひぬ。なによ
りも殿(親鸞)の御往生、なかなかはじめて申すにおよばず候ふ。
山を出でて、六角堂に百日籠らせたまひて後世をいのらせたまひけるに、九
十五日のあか月、聖徳太子の文を結びて、示現にあづからせたまひて候ひけ
れば、やがてそのあか月出でさせたまひて、後世のたすからんずる縁にあひま
ゐらせんとたづねまゐらせて、法然上人にあひまゐらせて、また六角堂に百日
籠らせたまひて候ひけるやうに、また百か日、降るにも照るにも、いかなる大
風にもまゐりてありしに、ただ後世のことは、よき人にもあしきにも、おなじやうに生死出づべき道をば、ただ一すぢに仰せられ候ひしを、うけたまはりさだめて候ひしかば、「上人のわたらせたまはんところには、人はいかにも申せ、たとひ悪道にわたらせたまふべしと申すとも、世々生々にも迷ひければこそありけめとまで思ひまゐらする身なれば」と、やうやうに人の申しときも仰せ候ひしなり。(「註釈版聖典」・811頁)
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○【読者の声】 182号(2003 夏)によせて (183号掲載)
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千葉・村井道子様:
恵信尼さまのお手紙の解説が分かりやすかったです。お待ち受け法要にお参りさせていただく時、参考になりました。
大阪・豊田正子様:
恵信尼さまのお人柄がよくわかりました。次号の講座が楽しみです。
鹿児島・大迫ツヤ子様:
親鸞さまへの妻としての思いや、お人柄、生き方を学びました。
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○【まえがき】 の変更について 本願寺組織強化部
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【まえがき】において「ここでは第一通から第五通までのお手紙の内容を解説いたします」と記述されていますが第六通以後についても連載されていることについて
当初は、恵信尼様の「使用人」についての書き方が、いろいろと難しい面もあるだろうということで、第五通までの予定でしたが、最後まで書いていただくことになり引き続きご執筆いただいております。
182号に第五通までと書いていただいておりながら、その後何の説明もしていないままになっておりました。ご了承の程、よろしくお願いいたします。
本願寺組織教化部
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