恵信尼消息
(連載第11回 仏教婦人会総連盟 めぐみ 第192号 2005/12 冬)
千葉 乗隆
安楽寺 浄土真宗本願寺派 千葉山安楽寺

◎恵信尼消息 第八通 その二
  第八通は第10 11回の二回に亘り連載します

現代語訳 解説 本文(原文) 読者の声
○【現代語訳】 恵信尼消息 第八通 その二

   またあなた(覚信尼)のお子さまの光寿御前覚恵房)が、修行のために京都からこちらの 方に来られるといっておられましたけれども、 おみえにはなりませんでした。

 また、あなたにお仕えしているわかさ殿も、 年をとって、今はおちついた年齢になられた ことと、なつかしく思われます。どうかお念仏 を申すように心がけて、おたがいに極楽でお会 いできますようにとお伝えください。

 なによりも、まず、お子さまのこと、どう しておられるのか、詳しくお聞かせください。 ぜひ承りたいと思っています。一昨年やらに お子さまがお生まれになられたということを お聞きしました。まだお会いしてはいません が、なつかしく思っています。

 また、そちらへ行くようにと申しつけてい ました娘たちも、先年の熱病が流行したとき に、おおぜい亡くなりました。「ことり」と申 します女の子も、もう年をとりました。父は 御家人で名は「むまのぜう(うまのじょう)」と 申す者の娘がおります。その娘をあなたのと ころに行かせようと思い、「ことり」と申す者 にあずけています。しかしその娘はたいへん 無作法で、しかも髪なども見苦しく、なんの とりえもない、憎たらしい子どもです。  「けさ」の娘に「わかば」という二十一歳に なる者がいます。いま妊娠していまして、二、 三月ころに子どもが生まれます。その子が男 であれば、父親が引き取ることでございまし ょう。以前にも今年五歳になる男の子を産み ましたときに、父のあとを受けつぐというこ とで、父が引き取りました。このたび生まれ る子は、どのようなことになりますやら。
 「わかば」の母の「けさ」は、頭になにかよ くないおできができて、もう十余年になりま す。そのために、なにもすることができず、本 人は死を覚悟していると申しています。

 以前、あなたのところにおりましたときは、 まだ子どもで 「おと法師」と申しておりまし た者に、そちらへ行くように申しております が、妻や子がいますので、とても行くとは申 さないことと思われます。

 わたくしが死にましたならば、「おと法師」 のことは栗沢信蓮房)に話しておきますので、 京都に来るようにと申しつけてください。

 また栗沢は、なにを思ったのか、「のづみ」 という山寺にこもって、不断念仏をはじめま した。なにか本を書くということをいってい るそうですが、それは五条殿(親鸞聖人)のた めにと申しているようです。  なにかと申したいことが多くございますが、 明日の朝はやく使いが出発するということで すので、この手紙は夜に書きました。大変に 暗い中でしるしましたので、読みにくいこと であろうと思い、ここで書くことを止めるこ とにいたします。

 また、針をすこしくださいませ。この手紙 のご返事のお便りの中にでも入れてください ませ。

 なおなお、お子さまたちのこと、詳しくお 知らせくださいませ。お聞きするだけでも心 が慰められます。いろいろお聞かせいただき たいことがありますが、きりがありませんの で、ここでやめることにいたします。

 また、宰相殿は、まだ結婚しておられない のでしょうか。

 あまりに暗うございますので、どのように 書きましたことやら、さぞお読みになりにく いことと存じます。

 (文永五年(一二六八)) 三月十二日
 の時 (夜十時頃)
○〔解説〕 恵信尼消息 第八通 その二

覚信尼系図  恵信尼さまの孫で、覚信尼さまと日野広綱 との間に生まれた光寿御前覚恵房、当時二十 五歳)が修行のために越後に来るというので 待っておられましたが、ついにおみえになら なかったと、失望されたご様子がしるされて います。

 光寿御前は七歳のとき父が亡くなられたの で、日野光国猶子(養子)になり、青蓮院出家得度し、宗恵と名乗りました。しかし、 聖道門では悟ることができないと念仏門に転 じ、名を覚恵房と改めました。このころ、こ のお手紙にあるように、祖父親鸞聖人の足跡 をたどり、北国へ旅立たれました。しかし、 恵信尼さまのおられる越後までは行かれませ んでした。

 念仏門に入った覚恵房は、親鸞聖人の孫の 如信上人善鸞さまの子)を師と仰がれました。 このことは親鸞聖人の教えを受けた門弟の名 簿「親鸞聖人門弟交名帳」に、如信上人の 門下のトップに覚恵の名をしるし、ついで乗 善・入善・明教・性信をあげ、そのつぎに覚 如(覚恵の長男)の名がしるされていることで 明らかです。    〇  〇  〇

 このお手紙の終りの方に「宰相殿は、まだ 結婚しておられないのでしょうか」とありま す。この宰相殿とは、覚信尼さまと日野広綱 との間に生まれた女のお子・光玉さまのこと と推察され、このころ年齢は二十三歳くらい と思われます。

 『大谷嫡流実記』には、如信上人の内室は 覚恵房の妹光玉尼であるとしています。ただ しこの本は、江戸時代末の嘉永六年(一八五 三)に著されたもので、それ以前の史料には このことは見えず、真偽のほどは不明です。  この恵信尼さまのお手紙が書かれた年、文 永五年(一二六八)に如信上人は三十四歳、 光玉尼は二十三歳(推定)でした。

   ○  ○  〇  覚信尼さまと如信上人が親しくおつきあい されていたらしいことをうかがわせるものに、 如信上人が覚信尼さまに宛ててしるされた 「びわ女預状」があります。

 その内容は、つぎの通りです。

  「如しんぼうのびわあづかりふみ」

 「おほたにどのより、とし十六になり候び わをんな、あづかりまいらせ候ぬ、いつにて も御ようとおほせ候はんをりは、いそぎかへ しまいらせ候べく候。もしわがみ、しになど して候とも、あとに候はん女ばうも、またで しも、しりたることにて候へば、御たづね候 て、めされ候べく候。あまごぜんのしなせ給 て候とも、ゆづられさせ給て候はんきんだち にても、こわせ給はんときは、さうゐなくま いらせ候べく候。のちのせうもんのために、 かく申をき候なり。

  けんち三年十一月一日
           如 信(花押)」

びわ女預状
びわ女預状

   ○  ○  〇  右の如信上人が覚信尼さまに宛てた証文を 現代文に訳しますと、つぎの通りです。

 「大谷の覚信尼さまから、年十六歳の「び わ」という女性を預かりました。もし彼女が そちらで必要があれば、ただちにお返しいた します。もし私が死ぬようなことがありまし ても、あとに残った妻や弟子も、「びわ」を お預かりしていることは承知いたしておりま すので、彼らに申して「びわ」をお手元に召 し返してください。もし覚信尼さまがお亡く なりになられたときには、あとを継がれたお 子さまが、「びわ」を返せといわれたときに は、必ずお返しいたします。後日のために、 この証文をしるしました。  建治三年(一二七七)十一月一日
             如 信(花押)」

如信上人がこの証文を書かれた建治三年は、 上人四十三歳、覚信尼さま五十四歳(恵信尼 さまはその九年前にご往生されたと推定)の時に 当たります。そしてこの証文は、甥と叔母と いうお二人が、親しく交際されていた関係を 示すものといえましょう。

   ○  ○  ○  このお手紙の後半に、恵信尼さまは越後の 国栗沢(新潟県上越市板倉区栗沢)に住んでお られるお子さまの信蓮房(明信)が、「のづみ」 という山寺で不断念仏をはじめられたことを しるしておられます。

 のづみの山寺については、栗沢と同じ板倉 にある山寺薬師を指す説と、同県三島郡寺泊 町野積であろうとする両説があります。前者 の山には信蓮房が不断念仏を行ったという伝 承のある「聖の岩屋」があります。

 信蓮房が行った不断念仏とは、特定の日時 を定めて、その期間は昼夜を問わず断えず念 仏を修することでした。信蓮房は父親鸞聖人 のみ教えをお偲びする本を書くために不断念 仏をはじめられたと、恵信尼さまは述べてお られます。  ところで、このお手紙のなかで恵信尼さま は、親鸞聖人のことを「五条殿」と書かれ ています。聖人は東国から帰京後は「扶風 (右京)馮翊(左京)ところどころに移住した まひき」(『御伝鈔』)と、京都市内を転々と移 られたようです。恵信尼さまが越後に行かれ るまでは、五条西洞院に住んでおられました ので、そこから「五条殿」と書かれたと思わ れます。

 恵信尼さまが越後に行かれて二年ほど経た 建長七年(一二五五)十二月十日にその五条 西洞院の居所が火災で焼けました。その後、 聖人の弟尋有僧都比叡山東塔東谷善法院の 院主)の京都の里坊である三条富小路善法 坊に移られたようです。正嘉二年(一二五八) 十二月十四日にはこの善法坊で、門弟顕智に 「自然法爾御書」を授けておられます。  そして聖人は、この善法坊で弘長二年十一 月二十八日(一二六三年一月十六日)にご往生 になられたのでした。

 その六年後に恵信尼さまは、このお手紙を 書かれて、まもなくご往生されたようです。 繰り返し、なんどもお孫さんたちの消息を聞 きたいと求めておられるのが、京都と越後の 遠く離れた距離を思わせられます。果たして、 お返事は届いたのでしょうか。
○【本文】 恵信尼消息 第八通 その二 原文

恵信尼消息
恵信尼消息第八通
 またくわうず御前の修行に下るべきとかや仰せられて候ひしかども、これへ はみえられず候ふなり。

 またわかさ殿のいまはおとなしく年寄りておはし候ふらんと、よにゆかしくこそおぼえ候へ。かまへて念仏申して極楽へまゐりあはせたまへと候ふべし。

 なによりもなによりも公達の御事、こまかに仰せ候へ。うけたまはりたく候ふなり。一昨年やらん生れておはしまし候ひけるとうけたまはり候ひしは、それもゆかしく思ひまゐらせ候ふ。

 またそれへまゐらせ候はんと申し候ひし女の童も、一年の大温病におほく亡せ候ひぬ。ことりと申し候ふ女の童も、はや年寄りて候ふ。父は御家人にてむまのぜうと申すものの娘の候ふも、それへまゐらせんとて、ことりと申すにあづけて候へば、よに無道げに候ひて、髪などもよにあさましげにて候ふなり。ただのにて、いまいましげにて候ふめり。  けさが娘のわかばと申す女の童の、今年は二十一になり候ふが、妊みて、この三月やらんに子産むべく候へども、男子ならば父ぞ取り候はんずらん。さきにも五つになる男子産みて候ひしかども、父相伝にて父が取りて候ふ。これもいかが候はんずらん。わかばが母は、頭になにやらんゆゆしげなる腫物のいでき候ひて、はや十余年になり候ふなるが、いたづらものにて時日を待つやうに候ふと申し候ふ。

 それに上りて候ひしをり、おと法師とてにて候ひしが、それへまゐらすべきと申し候へども、妻子の候へば、よもまゐらんとは申し候はじとおぼえ候ふ。尼(恵信尼)がりんずし候ひなんのちには、栗沢(信蓮房)に申しおき候はんずれば、まゐれと仰せ候ふべし。

 また栗沢はなにごとやらん、のづみと申す山寺に、不断念仏はじめ候はんず るに、なにとやらん撰じまうすことの候ふべきとかや申すげに候ふ。五条殿の御ためにと申し候ふめり。  なにごとも申したきことおほく候へども、あか月、便りの候ふよし申し候へは、夜書き候へば、よにくらく候ひて、よも御覧じ得候はじとてとどめ候ひぬ。  また、針すこし賜び候へ。この便にても候へ。御文のなかに入れて賜ぶべく候ふ。なほなほ公達の御事こまかに仰せたび候へ。うけたまはり候ひてだになぐさみ候ふペく候ふ。よろづ尽しがたく候ひて、とどめ候ひぬ。

 また、さいさう殿いまだ姫君にておはしまし候ふやらん。

 あまりにくらく候ひて、いかやうに書き候ふやらん、よも御覧じ得候はじ。

  三月十二日 亥の時
【読者の声】 192号(2005 冬)によせて  (193号掲載)

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