恵信尼消息
(連載第02回 仏教婦人会総連盟 めぐみ 第183号 2003/09 秋)
千葉 乗隆
安楽寺 浄土真宗本願寺派 千葉山安楽寺

◎恵信尼消息 第一通 その二
  第一通は第1、2、3回の三回に亘り連載します

現代語訳 解説 本文(原文) 読者の声
○【現代語訳】 恵信尼消息 第一通 その二

 さて常陸(茨城県)下妻に幸井郷(下妻市坂井)というところがあり、そこに居りましたとき、つぎのような夢を見ました。

 それは、お堂の落慶供養のようでした。お堂は東向きに建てられていましたが、宵祭らしく、お堂の前には、たいまつが明るく周囲を照らしていました。そのたいまつの西、お堂の前に、鳥居のような、横木を渡したものに、仏さまの御影像をお掛けしてあります。一体は普通の仏さまのお顔ではなくて、ただ光かがやくばかりで、それは仏さまの頭から発する光のようでした。そのため、ほんとうのお姿は見えないで、ただお光だけしか目に入りませんでした。いま一体の御影は、確かに仏さまのお顔をしておられたので、「これはなんという仏さまでございますか」とおたずねしますと、お答えくださったお方はどなたかわかりませんでしたが、「あの光ばかりしかみえない御影は、あれは法然上人でございます。勢至菩薩さまですよ」と申されました。     「それでは、もう一体の御影は」とおたずねしますと、「あれは観音菩薩さまでございます。あれこそ善信(親鸞)の御房ですよ」というのを聞いたと思ったとき、目が覚めて、これは夢であったとわかりました。

 そのようなことがありましたが、このような夢のことなどを、他人には話すものではないと聞いていました。しかも私がそのようなことを申しますと、人はほんとうだとは思ってくださらないでしょうから、いままで全く人にはお話ししませんでした。ただ法然上人の御事だけは、殿(親鸞)に申しあげますと、「夢にはいろいろとありますが、その夢は真実ですよ。法然上人が勢至菩薩の化身であるとの夢をみたということは、ほうぼうでたびたびあったということを聞いています。勢至菩薩さまはかぎりなき智慧をそなえたお方で、それは光となって顕現されます」と仰せになりました。そのとき、私は殿が観音さまの化身であられたという夢のことは、申しあげませんでした。しかし、それ以来、私は心のなかでは、殿は普通のお方ではないのだと思ってお仕えしてまいりました。どうかあなたさまも、殿はそのようなお方なのだということをお心得おきください。

 それゆえ、殿のご臨終がどのようであられましても、お浄土にご往生されたことはたしかであると信じています。またあなたと同じく益方もご臨終におあいになられたとのこと、親子のごとは申しながら、よくよく深いものがあることを、うれしく、うれしく思います。
○〔解説〕 恵信尼消息 第一通 その二

 親鸞聖人は承元元年(一二〇七)三十五歳のとき、朝廷の専修念仏停止により、越後(新潟県)国府流罪になりました。四年後に流罪はゆるされましたが、なお三年間ほど越後にとどまり、建保二年(一二一四)四十二歳のころ、越後を出て、常陸(茨城県)へ向かわれました。

 なぜ常陸に行かれる決意をされたのかは明らかではありません。このころ関東は鎌倉幕府が樹立されて間もなく、京都に対抗する新興の政治・文化の中心としての意欲に燃えていました。聖人はその関東の進取的雰囲気に、聖人の説く新しい他力念仏の教えを受容しやすいものがあると判断されたのかもしれません。     越後から常陸へ向かう途中、上野(群馬県)佐貫滞在したときの出来事が恵信尼さまのお手紙の第三通目にしるされています。その内容は後掲します。

 この第一通(二)には聖人ご一家が常陸の下妻(茨城県下妻市)に滞在しておられたとき、恵信尼さまのみられた夢のことをしるし ています。     お手紙の原文に「ひたちの、志もつまと申候ところに、さかいのかうとところに候しとき」とあって、地名は仮名でしるされています。その「さかい」は現在は下妻市坂井と表記していますが、「堺」の字を充てる説もあります。しかし、中世の文書に「下妻庄内、幸井郷」とありますので、ここでは幸井郷の字を充てました。     この幸井郷で恵信尼さまがごらんになつた夢は、法然上人は勢至菩薩の化身、親鸞聖人は観音菩薩の化身という内容でした。 親鸞聖人は『高僧和讃』(源空讃)の中で、
  源空勢至と示現し
   あるいは弥陀と顕現
   上皇・群臣尊敬
   京夷庶民欽仰
               (『同』 五九七頁)
と法然(源空)上人は阿弥陀仏や勢至菩薩の生れ代わりであるとして、上皇をはじめ朝廷につかえる人びとが尊敬し、都や田舎の人びとも上人のお徳をたたえていると讃詠しておられます。     また恵信尼さまは、法然上人のお姿はみえず、ただ光ばかり輝いていたといっておられます。このことについて、同じく『高僧和讃』に、
  源空存在せしときに
   金色の光明はなたしむ
   禅定博陸まのあたり
   拝見せしめたまひけり
                (『同』 五九六頁)
と法然上人のお姿が光りかがやいているのを、禅定博陸(関白の九条兼実)が拝見したと述べておられます。     九条兼実は当時の権力者でしたが法然上人に深く帰依し、上人は兼実の要請によって、その主著『選択本願念仏集』を著されました。

 また親鸞聖人が観音菩薩の化身であったという恵信尼さまの夢に関連し、『御伝鈔』(『同』一〇四四頁)に、聖人は結婚する女性が観音菩薩の化身であるという夢告をうけられたことがしるされています。     この夢告は、聖人三十一歳、建仁三年(一二〇三)四月五日のことで、その内容は
 行者宿報設女犯 我成玉女身被犯

 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽
(仏道を修める者が、何かの縁によって、女性と結ばれることがあるならば」救世観音がその女性になりかわりましょう。そして一生の間、その行者によくつかえ、死にのぞんだとき、極楽へ導いていきましょう)というのでした。     これによって聖人は内室を観音菩薩の化身であると思っておられ、いっぽう恵信尼さまも親鸞聖人をひそかに観音さまの生まれ代わりとして尊敬されたということです。     ついで恵信尼さまのお手紙には、殿のご臨終がどのようであられても、お浄土にご往生されたことはたしかであると強調しておられます。そのご臨終には越後から益方人道がはせつけられたことがしるされています。そのころ親鸞聖人の七人のお子さまのうち、小黒女房栗沢信蓮房益方人道高野禅尼の四人が越後に住んでおられました。     聖人は弟尋有僧都の善法院でご往生になられたので、その尋有僧都・覚信尼・益方人道をはじめ、下野(栃木県)高田顕智房遠江(静岡県)池田専信房なども上洛してきました。そして
  終焉にあふ門弟、勧化をうけし老若、おのおの在世のいにしへをおもひ、滅後のいまを悲しみて、恋慕涕泣せずといふことなし。
          (『御伝鈔』・『同』一〇六〇頁)
と、ご存生中のご恩徳を偲びつつ大いに歎き悲しんだのでした。
○【本文】 恵信尼消息 第一通 その二 原文

 さて、常陸の下妻と申し候ふところに、さかいの郷と申すところに候ひしとき、夢をみて候ひしやうは、堂供養かとおぼえて、東向きに御堂はたちて候ふに、しんがくとおぼえて、御堂のまへにはたてあかししろく候ふに、たてあかしの西に、御堂のまへに、鳥居のやうなるによこさまにわたりたるものに、仏を掛けまゐらせて候ふが、一体はただ仏の御顔にてはわたらせたまはで、ただひかりのま中、仏の頭光のやうにて、まさしき御かたちはみえさせたまはず、ただひかりばかりにてわたらせたまふ。いま一体はまさしき仏の御顔にて    わたらせたまひ候ひしかば、「これはなに仏にてわたらせたまふぞ」と申し候へば、申す人はなに人ともおぼえず、「あのひかりばかりにてわたらせたまふは、あれこそ法然上人にてわたらせたまへ。勢至菩薩にてわたらせたまふぞかし」と申せば、「さてまた、いま一体は」と申せば、「あれは観音にてわたらせたまふぞかし。あれこそ善信の御房(親鸞)よ」と申すとおぽえて、うちおどろきて候ひしにこそ、夢にて候ひけりとは思ひて候ひしか。さは候へども、さやうのことをば人にも申さぬときき候ひしうへ、(恵信尼)がさやうのこと申し候ふらんはげにげにしく人も思ふまじく候へば、てんせいにも申さで、    上人(法然)の御事ばかりをば、殿に申して候ひしかば、「夢にはしなわいあまたあるなかに、これぞ実夢にてある。上人をば、所々勢至菩薩の化身と夢にもみまゐらすることあまたありと申すうへ、勢至菩薩は智慧のかぎりにて、しかしながら光にてわたらせたまふ」と候ひしかども、観音の御事は申さず候ひしかども、心ばかりはそののちうちまかせては思ひまゐらせず候ひしなり。かく御こころえ候ふべし。

 されば御りんずはいかにもわたらせたまへ、疑ひ思ひまゐらせぬうへ、おなじことながら、益方も御りんずにあひまゐらせて候ひける、親子の契りと申しながら、ふかくこそおばえ候へば、うれしく候ふ、うれしく候ふ。
(「註釈版聖典」812〜813頁)
【読者の声】 183号(2003 秋)によせて  (184号掲載)

栃木・青木満江様:
 「恵信尼消息」の現代語訳がとても分かりやすかったです。

広島・川本ミヨ子様:
 恵信尼さまのお手紙により、親鸞聖人のご信心を共に支え生き抜かれたお心と、妻としての生き方を学ばせていただきました。

佐賀・石井靖香様:
 「現代語訳」「解説」が読み易く、本文だけでは読み取れない部分が十分に理解できました。