恵信尼消息
(連載第05回 仏教婦人会総連盟 めぐみ 第186号 2004/06 夏)
千葉 乗隆
安楽寺 浄土真宗本願寺派 千葉山安楽寺

◎恵信尼消息 第三通

現代語訳 解説 本文(原文)
○【現代語訳】 恵信尼消息 第三通

 善信の御房(親鸞聖人)は、寛喜三年(一二三一)四月十四日の昼ごろから、すこしお風邪をひかれ、その夕方からおやすみになっておられましたが、病気が次第に重くなられました。腰やをなでさせもせず、看病人も全く寄せつけず、ただ静かに寝ておられました。おからだにふれてみますと、体温が火のように熱く、頭痛も激しくて、ただごとでないご病状でした。  ご病気になられて四日ほど経た明け方、お苦しみのなかで、「まこと、そうであろう」と仰せになりましたので、「いかがなされました。うわごとを申されたのではありませんか」とおたずねしますと、「うわごとではありません。病気になって二日目から、『大無量寿経』を休むことなく読んでいました。ふと目を閉じてもお経の文字が一字も残らずはっきりとくわしく見えます。これはいったいどうしたことであろうか、不思議なことだと思いました。
お念仏をよろこぶ信心よりほかに、なにか心にかかることがあるのだろうかと思い、よくよく考えてみますと、今から十七、八年前にもっともらしく『浄土三部経』を千部、衆生利益のためと思って読みはじめましたが、これはとんでもない間違いをしている。善導大師著わされた往生礼讃』に、「自信教人信難中転更難」とあるように、自ら信じ、人を教えて信じさせることが、ほんとうに仏の恩に報いたてまつることであると信じていながら、名号を称えるほかに、なにが不足で、お経を読まなければならないと考えたのだろうと反省して、読経を中止したことがありました。このような読経への思いが、いまなお少し残っていたのでありましょうか。

人が一度思いつめると、それにとらわれる心と、自力への思いは、たやすく捨てきれないもので、よくよく注意しなければならないと反省したのちには、お経を読むことはなくなりました。このようなことで、病に臥して四日目の明け方にまこと、そうであろう″といったのだ」と申されました。そしてまもなく、ひどく汗をおかきになつて、病気は快復されたのでした。

 このように、善信の御房が『浄土三部経』 を忠実に千部読もうとされたのは、信蓮房が四歳のときのことでした。それは武蔵国なのか、上野国であったのか、わかりませんが、佐貫というところでよみはじめられて、四、五日ほどして思い返して読むことを中止され、常陸国へおいでになられました。

 信連房は未の年承元五年(一二一一))三月三日の昼、誕生しましたので、今年は五十三歳であろうと思います。

  弘長三年二月十日     恵信
○〔解説〕 恵信尼消息 第三通
恵信尼消息第三通
恵信尼消息第三通 (西本願寺蔵) 折紙

 このお手紙は『恵信尼消息』第二通(No185)のなかで、「あなた(覚信尼さま)が八歳の年に親鸞聖人が風邪にかかられたときの出来事を書きしるします」としるされている、その内容を別紙に書き、覚信尼さまに送られたものです。 お手耗の内容は、親鸞聖人が五十九歳の寛喜三年(一二三一)四月十四日に風邪をひかれたことをきっかけに、十七年前の建保二年(一二一四)聖人四十二歳のときの出来事がしるされています。

 建保二年、聖人は越後(新潟県)から常陸(茨城県)へおもむかれる途中、上野国佐貫(群馬県邑楽郡板倉町佐貫)で衆生利益(生きとし生けるものの幸福)のため『浄土三部教』(『大無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』)を千部、読もうと思いたたれました。

 阿弥陀さまの浄土に生まれるためのに、読誦(お経を読む)・観察(阿弥陀仏とその浄土の有様をはつきり見る)・礼拝(阿弥陀仏を礼拝する)・称名(阿弥陀仏の名を称える)・讃嘆供養(阿弥陀仏の功徳をたたえ供養をする)の五つがあります。そのうち読誦の行は、何回となくお経を読むことにより、これを善き因として阿弥陀さまの救いを得ようとするもので、古来もっとも多く行われてきました。

 しかし法然上人は、これら五つの行の中から、特に称名を選ばれて、阿弥陀さまのみ名をとなえることが助かる道であると説かれました。すなわち専修念仏であります。

 親鸞聖人は、かつて比叡山の修行において、読経の行を積み重ねておられた習慣によって、何気なく『浄土三部経』の千部読誦をはじめられたようです。しかし、専修念仏者にとって、称名よりほかになすべきことはなく、ただ念仏によって救われることを、ひとりでも多くの人に伝えることこそ、本当に人びとと幸福を分かちあうことができるのだと思いかえされました。

 それから十七、八年後に、聖人は再び佐貫で中止した読経を夢うつつの中で称えている自分に気づかれました。それは、この『恵信尼消息』第三通(No186)のはじめに詳細にしるされていますように、寛喜三年(一二三一)四月十四日に風邪で臥されたとき、『大無量寿経』をたえまなく読まれる御自分の姿に、自力の行への執着というものは、たやすくぬぐい去ることができないものであることを、聖人は恵信尼さまに語られたのでした。

   ○   ○  親鸞聖人は法然上人のもとで建仁元年(一二〇一)二十九歳のとき自力聖道門脱却して、他力浄土門帰依されました。それから十三年後の建保二年(一二一四)に佐貫において読誦行への念が頭をもたげ、さらに十七年後の寛喜三年(一二三一)にもまた自力行のうずきを覚えられたのでした。それは不時に再発する宿痾(持病)にも似て、抜き難い自力への執心を、聖人は痛感されたのでした。

 晩年に作られた『正像末和讃』(愚禿悲歎述懐)に、

  悪性さらにやめがたし
   こころは蛇蠍のごとくなり
   修善雑毒なるゆゑに
   虚仮の行とぞなづけたる
  無慚無愧のこの身にて
   まことのこころはなけれども
  弥陀の回向御名なれば
   功徳は十方にみちたまふ
           (『註釈版聖典』六一七頁)

 とあり、ここにも自力修善虚仮の行だと知りながら、なおも修善に心うごくわが身を懺悔しておられます。そして、無漸無愧の恥しらずのこの身にそそがれる阿弥陀さまの大いなるお慈悲を感謝し喜ばれたのでした。

  ○   ○  恵信尼さまのお手紙が八通あるなかで、この第三通だけは、紙の使い方が折紙になっています。折紙とは紙を横にして半分に折り、その折り目に向かって文字を書きます。紙をひろげますと文字が折り目を中心に上下向かい合って対称的になるという紙の使用法です。他の七通は紙を折ることなく、一紙に長行でしるしておられます。

 なお、このお手紙のはじめに小さな文字で、「此一紙は、はしの御文にそへられたり」(この手紙は、さきにしるした手紙に添えられたものです)と別筆の書きこみがあるのは、覚如上人筆跡と推定されます。

 またお手紙の最後の空白部分に別筆で、「徳治二年丁未四月十六日」「この御うはがきは故上御て也 覚如しるす」「上人の御事ゑちごのあまごぜんの御しるし」と三行の書きこみがあります。

 一行目の徳治二年(一三〇七)四月十六日は覚如上人の筆跡で、上人がこの恵信尼さまのお手紙をご覧になつた日と推定されます。

 同年四月十二日に父覚恵上人がお亡くなりになり、その父上人の遺品を整理していて、覚如上人は、はじめて恵信尼さまのお手紙をご覧になつたものと推察されます。

 二行目の「この御うはがきは故(覚恵上人)のて(筆跡)也 覚如しるす」とあるのは、三行目の「上人(親鸞聖人)の御事ゑちごのあまごぜん(恵信尼さま)の御しるし」を指し、この書き入れは覚恵上人の筆跡であると覚如上人は言っておられます。
○【本文】 恵信尼消息 第三通 原文

此一紙ははしの御文にそへられたり」
 善信の御房(親鸞)、寛喜三年四月十四日午の時ばかりより、かざ心地すこしおばえて、そのさりより臥して大事におはしますに、腰・をも打たせず、てんせい、看病人をもよせず、ただ音もせずして臥しておはしませば、御身をさぐればあたたかなること火のごとし。のうたせたまふこともなのめならず。

 さて、臥して四日と申すあか月、くるしきに、「まはさてあらん」と仰せらるれば、「なにごとぞ、たはごととかや申すことか」と申せば、「たはごとにてもなし。臥して二日と申す日より、『大経』をよむことひまもなし。たまたま目をふさげば、経の文字の一字も残らず、きららかにつぶさにみゆるなり。さて、これこそこころえぬことなれ。

念仏の信心よりほかにはなにごとか心にかかるべきと思ひて、よくよく案じてみれば、この十七八年がそのかみ、げにげにしく三部経を千部よみて、すざう利益のためにとてよみはじめてありしを、これはなにごとぞ、(自信教人信 難中転更難)(礼讃)とて、みづから信じ、人を教へて信ぜしむること、まことの仏恩を報ひたてまつるものと信じながら、名号のほかにはなにごとの不足にて、かならずをよまんとするやと、思ひかへしてよまざりしことの、さればなほもすこし残るところのありけるや。

人の執心自力のしんは、よくよく思慮あるべしとおもひなしてのちは、経よむことはとどまりぬ。さて、臥して四日と申すあか月、(まはさてあらん)とは申すなり」と仰せられて、やがて汗垂りてよくならせたまひて候ひしなり。

 三部経、げにげにしく千部よまんと候ひしことは、信蓮房の四つの歳、武蔵 の国やらん、上野の国やらん、佐貫と申すところにてよみはじて四五日ばか りありて、思ひかへして、よませたまはで、常陸へはおはしまして候ひしなり。
 信蓮房は未の年三月三日昼生れて候ひしかば、今年は五十三やらんとぞおぼえ候ふ

 弘長三年二月十日                   恵信
                「徳治二年 丁未 四月十六日」
          「このうはがきは故上の御て也 覚如しるす」
 「上人の御事、ゑちごのあまごぜんのおんしるし
                 (「註釈版聖典」815〜817頁)