恵信尼消息
(連載第09回 仏教婦人会総連盟 めぐみ 第190号 2005/06 夏)
千葉 乗隆
安楽寺 浄土真宗本願寺派 千葉山安楽寺

◎恵信尼消息 第七通

現代語訳 解説 本文(原文)
○【現代語訳】 恵信尼消息 第七通

 京都に手紙をとどけてくださるということで、 うれしくて、おたよりをさしあげます。
 私は昨年(文永元年(一二六六))の八月ごろ から下痢の病に苦しみ、いまだに回復せず、 わずらわしくて困っています。このようを病気の外に、 年のせいで、もうろくしてどうにもしようがあ りません。今年は八十六歳になりました。の 年(寿永元年(一一八二)壬寅)に生まれましたので。  また、あなたさまのところに行くことになっ ている使用人たちも、その身の上について、い ろいろと変化がありました。「ことり」と申しま す以前からおります者が、「三郎た」という者と 一緒になつていましたが、「三郎た」は出家して 「さいしん」と称しました。この「さいしん」と 血縁関係にある「むまのぜう」という武家に仕 える者がおります。この「むまのぜう」の娘で今 年十歳ほどになるのがいます。娘の母親はたい そうおとなしく落ちついた人柄で、名を「かが」 といい、私が使っていましたが、先年熱病が流 行したときに死にました。親が亡くなつたので、 その娘を「ことり」にあずけました。「ことり」に は子どもがおりませんでしたので。  それからまた、「けさ」と申します者の娘に 「なでし」というよい子がいましたが、熱病で亡 くなりました。母親の「けさ」は生きてはいます が、長いあいだ頭にはれものができて、いまだ に治らず、快復する見込みがないと申しており ます。

 「けさ」にはもうひとり娘がいます。その娘は 今年は二十歳になります。この娘と、「ことり」 と「いとく」の三人の娘たちと、以前そちらにお りましたとき「おと法師」と申していました者で、 今は「とう四郎」と申しています者に、京都のあ なたさまのもとに行くように申しますと、「とう 四郎」は父母を残して行くことはできないと、 心のなかで決めているといっております。しか し、それは私がどのようにも取り計らいます。  このように、こちらでいろいろ配慮して、か わりの人を差し向けようと思っています。この ことについて栗沢(信蓮房)がまいりましたとき 相談したいと思っています。かわりの人は何人 かあると思います。しかし、「とう四郎」ほどよ い男は世の中に少ないのではといわれています。

 また小袖(袖の小さい着物)をたびたびお送りく ださり、うれしく存じます。いまは、この小袖 を死に装束にして、下に着る着物もありますの で、死に装束が準備できて、なんと申してよい か言葉もなく、うれしく存じます。あまり着古 したものではと、死んだときのことを心にかけ ないわけにはまいりません。いまは、いつなん どき死ぬかわからない身でございますから。

 また確かな便のあるときに、小袖をくださる よう申しておられますが、この「ゑもん人道」の 便は、確かで信頼できると存じます。またあな たの御子さまの宰相殿は、御縁があっておちつ かれたのでしょうか。御子さま方のことなど、 みなうけたまわりたく存じます。これ以上、書 くことができませんので、やめることにいたし ます。あなかしこ、あなかしこ。

   九月七日  (追伸)

 また「わかさ殿」も、今は少し年をとられた ことでしょう。なんとなく慕わしく思っていま す。年をとりますと、疎遠であった人にもなん となく会いたく思います。「かのこのまえ」の可 愛い姿や、「上れんばう」のことも思い出されて、 なつかしく存じます。あなかしこ、あなかしこ。

              ちくぜん (恵信)

 「わかさ殿」申しあげてください

               とひたのまきより
○〔解説〕 恵信尼消息 第七通

恵信尼消息 第七通 西本願寺蔵
恵信尼消息第7通 西本願寺蔵

 この第七通のお手紙は、恵信尼さまが八十六 歳の文永四年(一二六七)九月七日付でもって、 覚信尼さまに宛ててお出しになつておられます。  これ以前のお手紙、第六通は文永元年(一二 六四)五月十三日付で発信されていますので、 第七通との間には三年四カ月の空白の期間があ ります。この間、文通されなかったことはない と思われますので、何かの理由でお手紙がなく なったのかもしれません。

    ○  ○  ○  まずご自身の病気のことをしるされ、一年以 上も下痢が続いて、いまだによくならないこと、 今年は八十六歳になるので、もうろくしてどう にもしようがないとしるしておられます。しか し、そういってはおられますが、記憶ははっき りしておられ、お手紙の大半は使用人について、 一人ひとりの動向や性格などを、こと細かに書 いておられます。

 特に「とう四郎」という人は、よくできた男 で、京都に行くようすすめているが、両親を残 して行くことはできないといっています。しか し彼ほどよくできた男はいないので、この件に ついては栗沢にいる信蓮房に意見を聞きたいと いっておられ、信蓮房さまが母恵信尼さまの相 談役になっておられたことが知られます。     ○  ○

 ついで覚信尼さまのお子さまたちの動向をた ずねておられます。覚信尼さまは、十八歳(仁 治二年(一二四〇))のころ日野広綱と結婚されま した。広綱は、皇宮警備する左衛門府の次官 や、宮内省の次官も勤めたお方です。広綱の父 日野信綱は、法名を尊蓮と称し、親鸞聖人の 門弟でした。また広綱も出家して宗綱と称し、 聖人の門弟となっておられます。

 広綱と覚信尼さまの間に、寛元元年(一二四三) 頃に男子光寿(専証房・覚恵)が、ついで女子光 玉が誕生しました。しかし、広綱は光寿が七歳 のとき死去されました。

 やがて光寿は、一門の日野光国の子として青 蓮院尊助親王のもとで出家得度し、覚信尼さま は光玉をつれて父母(親鸞聖人・恵信尼さま)のも とにかえられたようです。  覚信尼さまは、母恵信尼さまが建長五、六年 (一二五三〜五四)のころに越後に行かれたあと、 聖人が九十歳でご往生になられるまでの約十 年間、聖人のお世話をされました。

 弘長二年(一二六二)に父聖人が亡くなられた あと、文永元年(一二六四)覚信尼さま四十一歳 のころ小野宮禅念と再婚されました。禅念は中 院(小野宮)少将具親の子で、少将阿闇梨といい、 のち入道して禅念と称しました。

 覚信尼さまが再婚された小野宮禅念の家は、 京都東山の吉水の北、今小路の末の南にあり、 のちこの地に親鸞聖人の廟堂が造営されること になります。

 文永三年(一二六六)覚信尼さま四十三歳のと き一名丸(唯善)が生まれました。

 恵信尼さまがお手紙の中で、「お子さま方のこ となどみな承りたく存じます」とお書きになっ た文永三年に長男の光寿さまは二十三歳、長 女の光玉さまは二十一歳くらい、次男一名丸 さまは一歳でした。  恵信尼さまが「宰相殿はご縁があっておちつ かれたのでしょうか」とお尋ねになつた宰相殿 とは長女光玉さまのことと思われます。

 追伸に、覚信尼さまの侍女と思われる「わか さ殿」の近況を尋ねておられます。「かこのまへ」 「上れんばう」のことも思い出しなつかしく存じ ますとしるしておられますが、この両人は「わ かさ殿」の子どもかもしれません。

 なお、この手紙の発信地は「とひたのまき」 となつていますが、現在の新潟県中頚城郡内で 諸説があって、確定していません。
○【本文】 恵信尼消息 第七通 原文

 便りをよろこびて申し侯ふ。

 さては去年の八月のころより、とけ腹のわづらはしく候ひしが、ことにふれ てよくもなり得ず候ふばかりぞ、わづらはしく候へども、そのほかは年の故に て候へば、いまは耄れさうたいなくこそ候へ。今年は八十六になり候ふぞか し、寅の年のものにて候へば。

 またそれへまゐらせて候ひしばらも、とかくなり候ひて、ことりと申し候 ふ年ごろのやつにて、三郎たと申し候ひしがあひして候ふが、入道になり候 ひてさいしんと申し候ふ。入道めにはちあるもののなかのむまのぜうとかや申 して御家人にて候ふものの娘の、今年はやらんになり候ふを、母はよにおだ しくうく候ひし、かがと申してつかひ候ひしが、一年の温病の年死にて候ふ。 親も候はねば、ことりも子なきものにて候ふ。ときにあづけて候ふなり。

 それまた、けさと申し候ひし娘の、なでしと申し候ひしが、よによく候ひし も、温病に亡せ侯ひぬ。その母の候ふも、年ごろ頭に腫物の年ごろ候ひしが、 それも当時大事にて、たのみなきと申し候ふ。その娘一人候ふは、今年は二十 になり候ふ。それとことり、またいとへ、またそれにのぼりて候ひしときおと 法師とて候ひしが、このごろとう四郎と申し候ふは、まゐらせんと申し候へば、 父母うちすててはまゐらじと、こころには申し候ふと申し候へども、それはい かやうにもはからひ候ふ。かくゐ中に人にみを入れて代りをまゐらせんとも、 栗沢(信蓮房)が候はんずれば申し候ふべし。ただし代りはいくほどかは候ふべ きとぞおぼえ候ふ。これらほどの男は世にすくなく申し候ふなり。  また小袖たびたびたまはりて候ふ。うれしさ、いまはよみぢ小袖にても候 はんずれば、申すばかり候はずうれしく候ふなり。いまはあまり着て候ふもの は、最後のときのことはなしては思はず候ふ。いまは時日を待つ身にて候へば。

 またたしかならん便に、小袖賜ぶべきよし仰せられて候ひし。このゑもん入 道の便りはたしかに候はんずらん。また宰相殿はありつきておはしまし候ふや らん。よろづ公達のことども、みなうけたまはりたく候ふなり。尽しがたくて とどめ候ひぬ。あなかしこ、あなかしこ。

  九月七日

 またわかさ殿も、いまは年すこし寄りてこそおはしまし候ふらめ。あはれ、 ゆかしくこそ思ひ候へ。年寄りてはいかがしくみて候ふ人も、ゆかしくみた くおぼえ候ひけり。かこのまへのことのいとほしさ、れんばうのことも思 ひいでられてゆかしくこそ候へ。あなかしこ、あなかしこ。

                    ちくぜん

  わかさ殿申させたまへ

                      とひたのまきより
          (「註釈版聖典」 821〜823頁)