思い出深き念仏者
(連載第2回 自照社出版 自照同人 第16号 2003/05)
千葉 乗隆   
     
○無相さんの説得で大学へ
 私が龍谷大学の予科に入学したのは1938年(昭和13) のことでした。このとき私は中学四年生でしたので、あと一年中学にとどまり、卒業したのち大学に進学したいと思っていました。大学から合格の通知があったとき、両親にこのことをいいました。しかし、合格したのだから入学するように、と両親はいいます。

 そして両親は木村無相さんに私の説得を依頼しました。  この木村無相という人は真言宗の行脚僧で、そのころ四国八十八か所巡礼の途中で父の寺に立ち寄り、浄土真宗の教えに心ひかれ、前年の夏いらい寺に来住していました。無相さんは真言宗と真宗との間を幾度か往復ののち、後半生は念仏三昧の生活を送り、その心情を『念仏詩抄』にうたいあげています。

 その無相さんが私に「なぜ大学に進学しないのか」とたずねますので、「中学を卒業してから行きたい」ということと、今ひとつ 「大学に入学しても、とてもみんなについて行けそうにない」ということを申しました。それは入試のとき試験場で出会った受験生たちはみな落ち着いて、自信にみちた様子で、田舎出身の私には、とても一緒に勉強できないのではという強い不安感をいだいたのでした。
 そのことを無相さんにいいますと、無相さんは「勉強がよくできるかできないかは、外見だけでは判断できません。都会の生徒さんは場慣れしているだけで、なにもこわがることはありません。試験に合格したということは、大学がこの学生は講義を理解する能力があると判断したのですから、なにも心配しないで大学へ行きなさい」と強くすすめてくれました。そこで進学を決意したのでした。
○宮地先生のもとに
 私は龍谷大学に入学すると下宿が決まるまでの間、とりあえず宮地廓慧先生のお宅に泊めていただくことになりました。
 この前年、1937年(昭和12)12月29日、宮地先生が師と仰ぐ横田慶哉先生が亡くなられました。その横田先生の養子慶信さんが宮地先生宅から中学に通っていましたので、私が居すわってはご迷惑がかかると思いつつ、 二か月ほどお世話になりました。

 入学して一か月ほど経たころ、宮地先生が「千葉君は大学でドイツ語を習っていますか」とたずねましたので、「はい」と答えました。すると先生は「実は池山栄吉先生のドイツ語訳の『歎異抄』が絶版になっているので、再版したい」といわれて、私にその『歎異抄』を手渡され、「これを原稿用紙に書き写してください。その際にミスプリントがあれば訂正してください」といわれました。     私はドイツ語を習いはじめたばかりで、ミスプリントなどとても発見できそうにありません。しかし、命じられるままに、書写をはじめました。ドイツ語の辞書を引きながら書き写すものですから、作業は容易にはかどりませんでした。

 数か月を経てようやく半分くらい書写したとき、宮地先生は「ドイツ語訳『歎異抄』を所持しておられた方から一冊提供されたので、あなたが書き写している本と合計二冊になりました。そこで二冊の本を解体して原稿用紙にはりつけ、訂正して、印刷にまわすことにします」といわれて、私の手元にあった『歎異抄』を持って帰られ、私は書写の苦しみから解放されたのでした。

 その後宮地先生によって、池山先生が底本とされた流布本を端坊本に変えるなど、いろいろ改訂が加えられ、1940年(昭和15)に出版されました。     著者の池山先生は、再版の作業をはじめた年の11月に亡くなられたので、改訂された本をご覧 にはなりませんでした。
 このときのことをふりかえるとき、コンピュータで自由自在に文字の訂正削除ができる現在の印刷技術の進歩は、本当に夢のような気がします。

 この池山先生が岡山の第六高等学校に勤務されていたときの教え子が花田正夫先生でした。池山先生が1929年(昭和4)に大谷大学に移られると、花田先生との交流が次第に強くなり、学生親鸞会のメンバーも池山先生の催す一道会に参加するようになりました。

 私は池山先生のお話を聞く機会はありませんでしたが、先生は横田先生の一途な激烈さとは対照的な方で、穏やかな中に強い信念をいだかれた念仏者であられたということをきいています。
○ドイツに念仏者
 池山先生のドイツ語訳『歎異抄』は、後年、名古屋大学の山田宰先生がドイツのベルリン工科大学に留学されるとき(1954年(昭和29))、花田先生がこの本を山田先生に託され、ドイツでご縁があればお念仏をおすすめするようにといわれたということです。

 このころ花田先生は名古屋に住んでおられ、山田先生はその門下の念仏者でした。

 山田先生はベルリンでハリー・ビーバーさんに出会い、『歎異抄』の講義をしました。
 ビーバーさんはそのころチベット仏教に関心をもっていましたが、山田先生の講義を聴き、親鸞聖人の教えに感動しました。

 このようなとき西本願寺の大谷光照門主がベルリンを訪れ、ご法話をされました。そしてこの際にビーバーさんは帰敬式をうけ、法名「勝厳」と賜り、ヨーロッパ真宗門徒第一号となったのでした。     このことを光照門主は、その著書『法縁』の中に、「ビーバー君にご法義の話をした山田さんは、かねてから本派の名古屋別院の花田正夫さんというありがたい人物の感化を受けて、信を深め、専門の電気工学の研究のためベルリンに留学しながら、向こうにお念仏の種子を植えつけて帰るという尊い仕事をされたことになる。この人を育てた花田さんは、いまなお八十を越えて健在で昭和の妙好人″とまで言われている。そのあとビーバー君は 一念発起して、浄土真宗の仏教会を作ったわけで、本派の信徒の一員として活動をはじめ、その感化によって、スイスのエラクル、イギリスのオーステイン、オーストリアのフエンツエルの諸君が浄土真宗に帰依し、それぞれの所に念仏の輪が作られることになる」と記しておられます。

 こうしてヨーロッパに念仏の輪をひろげたビーバーさんの生活は「毎日、『歎異抄』を読み、つねに私の疑問、不安、問題に対しての答えを見出しています。これは本当に驚くべき価値のある本です。友人達にも『歎異抄』に忠実であるようにとすすめています」(1967年9月4日付、山田宛のビーバー書簡)と、『歎異抄』への傾倒をますます強めたことが知られます。
○『歎異抄』と私
 私が中学三年の頃のこと、同級生の友人が 「千葉君、『歎異抄』ってすばらしい本だね」というので、「君は『歎異抄』を読んで理解できたか」とたずねますと、彼は「わからないところはあるが、親鷲の強い情熱は感じる」と答えました。この発言を聞いて、私は大きなショックを受けたのでした。     そのころ父の寺に宮地先生が来られて、しばしば法話会が開かれていました。先生は奈良県の寺に生まれられ、高知県の寺の養子になられていたので、京都と高知を往復の途次に徳島の父の寺に立ち寄られるのでした。

 宮地先生の法話には、よく『歎異抄』が引用されます。たとえば「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに、親鸞一人がためなりけり。されば、それほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」というお言葉のところになりますと、一段と声をたかめて、「この罪深い宮地廓慧を目あてに救ってくださるとの思し召し、何というありがたいことだ」と涙を流して絶叫されるのです。     また宮地先生と父との会話の中でも、二人が涙しながら『歎異抄』を語る姿をよく目撃しました。私は、『歎異抄』はそんなにありがたい本なのかと思って読んでみましたが、さほど強い感動を覚えませんでした。

 そのようなときに、友人の「『歎異抄』はすばらしい」という言葉に刺激され、また改めて読んでみましたが、父たちのように涙が出るようなありがたさを感じるといったようなことはありませんでした。     龍谷大学に入学し、池山先生のドイツ語訳『歎異抄』再版のお手伝いの時も、目はただ紙面の言葉を追うだけで、その内容を深く追究することなく作業を中断しました。

 その後、長く真宗史研究にたずさわるなかで、『歎異抄』をとりあげることが再々ありましたが、それは史料としての引用など学問的視点にとどまっていました。

 2000年(平成12)秋に、思いがけなく角川書店からその『歎異抄』の現代語訳の依頼をうけました。このたびは全力を傾注して取組み、2001年(平成13)5月に角川ソフィア文庫から『新版 歎異抄 現代語訳付』を出版しました。出版終了後の私の心情は、かねて少年時代いらいひそかに期待 していたものとは異なったものでした。やはり全身を揺り動かすような感銘はありませんでした。これはいったいどうしたことか、私には宗教的心情が欠落しているのかと思いました。そのとき『歎異抄』第九条の親鸞聖人と唯円房との会話を想起しました。     「念仏していても、おどりあがるような喜びがなく、またはやく浄土に行きたいという心がおこらないのは、なぜでしょうか」との唯円房の質問に、「この親鸞もまたあなたと同じ思いをいだいています。おどりあがるほどに喜ぶべきことを喜ばないのは、煩悩のしわざです。このような煩悩にとまどうものをめあてに救ってくださるのが阿弥陀さまなのです。はやく浄土に行きたいという心のないものを、阿弥陀さまはことのほかあわれに思ってくださるのです。念仏して、もしおどりあがるような喜びがあり、またはやく浄土にまいりたいと思うのでしたら、わたくしには煩悩がないのであろうかと、かえって疑わしく思うでしょう」と答えておられます。     つまり『歎異抄』を読んでも感動しないのは、私の煩悩のなせるわざであり、このような私をめあてに救ってくださるのが阿弥陀さまなのだという親驚聖人の発言です。私は、なるほど仰せの通りだと思いました。

 しかし、そのように自分を納得させる一方で、私は心中ひそかにこの聖人の発言を隠れみのにして、自分の無信心をつつみかくしているのでは、という思いにさいなまれています。私の『歎異抄』への旅はまだまだ続きそうです。
○千葉乗隆 ちばじょうりゆう 千葉山安楽寺住職
 1921年、徳島県に生まれる。龍谷大学文学部国史科卒業。元龍谷大学学長。現在、本願寺史料研究所所員、国際仏教文化協会理事長、徳島県安楽寺住職。主な著書に「本願寺ものがたり」「蓮如上人ものがたり」「親鸞聖人ものがたり」「真宗重宝聚英」(共著)「講座蓮如」(共著)などがある。
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