思い出深き念仏者
(連載第4回 自照社出版 自照同人 第18号 2003/09)
千葉 乗隆   
     
○戦中・戦後の宮地先生
 今回も宮地廓慧先生のことを中心に述べたいと思います。

 先生は一九四三年(昭和一八) 四月から京都女子大学で仏教学の講義をされることになりました。しかし同年、軍隊に召集されて満州におもむき、のち高知県に転属となり、やがて終戦をむかえました。そして京都女子大に復職されたのでした。

 私も宮地先生が召集されたのと同じ頃、学徒動員で軍隊に入り、はじめ徳島の歩兵連隊、のち浜松陸軍飛行学校に転属し、終戦となり帰されたということで、先生と同じような体験をしたのでした。

 戦後、まだ女子大に進学する学生が少なく、宮地先生は各地の寺をまわり、私の徳島の寺にも来られて、学生の勧誘に当たっておられた姿が目に浮かびます。近年の京都女子大への入学志望者の多さと比較し、今昔の感強いものがあります。
 その後先生は女子大の学監や学長代理をされるなど多忙な日々を過ごされ、私も龍谷大学に勤務することになって、お会いする機会が少なくなりました。
○アメリカに移住
 先生は一九七八年(昭和五三)京都女子大を退職され、ご子息たちがアメリカで開教使をしておられたこともあり、サンタバーバラに移住されました。そしてバークレーのIBS(仏教大学院)やカリフォルニア大学サンタバーバラ校で仏教の講義をされました。

 一九八八年(昭和六三)にはロスアンゼルスに移られ、同地の本願寺別院等で宗学の指導に当たられました。一九九四年(平成六)九月、私はIBSの招待でアメリカに行きました。国際真宗学会北米支部第一回大会で講演をするためでした。会の名称は長いものでしたが、その内実はアルフレッド・ブルーム教授がIBSを退職されるにあたっての記念講演会でした。

 講演会にさきだち、ロスアンゼルスの別院で開教使の方たちに講義をすることになり、ここで久しぶりに宮地先生にお会いしました。あい変わらずお元気のようで、いつものようにしきりに念仏をとなえておられました。     先生は席に坐って私の話を聞いておられましたが、そのうちばったりと前に倒れました。私はびっくりして話を中断しました。先生は二、三人の方にだきかかえられて講演会場から去られ、私は司会者にうながされて、話を再開しました。
 話を終わって先生のご様子をお聞きしますと、時折り倒れられるが、たいしたことはないとのこと。自宅に帰られ、後ほど私に来てくださいとの伝言でした。

 ロス郊外の高台にある先生のお宅を訪問すると、別院で倒れたことは忘れてしまったようにお元気で、いろいろとお話を聞かせていただき、安心して先生宅を辞したのでした。

 翌日、サンフランシスコに帰り、IBSのケン田中助教授に宮地先生が倒れられたことを話しますと、IBSの講義中にも二、三度倒れ、そのたびに救急車を呼んだとのことでした。そして、宮地先生は講義に来たいといわれるが、同じようなことがまたおきると困るのでお断りしていると言われました。     九月二四日に学会が開催され、私は「浄土真宗の歴史的研究--過去・現在・未来」と題して講演、夕方にはブルームさんを送るパーティが開かれました。

 九月二六日にスタンフォード大学で、また翌二七日にはカリフォルニア大学バークレー校において、日本研究の教授や大学院生とのミーティングに出席、彼らの熱心な質問に圧倒されたのでした。

 二八日はIBSにおいて開教使に講義を行い、予定していた十日間の行事をすべて終えました。

 IBSと開教使の役員の方から翌年八月にもう一度来て講義をしてほしいとの要請があり、また宮地先生にお会いできると思い、そのお申し出を了承したのでした。
○ブルームさんとの出合い
 私がはじめてブルームさんに会ったのは、一九九〇年(平成二)八月、オーストリアのウィーン大学でした。

 その前年八月にヨーロッパの念仏者を支援するIABC(国際仏教文化協会)の山崎昭見理事長が死去され、私があとを継ぎました。そこで翌年開催のヨーロッパ真宗会議に出席し、ブルームさんと出会ったのです。

 ブルームさんは、アメリカのハーバード大学から東京大学に研究に来られ、帰国後ハワイ大学の教授となりました。日本留学中に仏教に関心を持ち、一九八二年(昭和五七)に龍谷大学で親鸞聖人の教えを学び、深く帰依されたという人です。

 その日本留学中のある日、ブルームさんは心臓発作で倒れ、救急車で病院に運ばれ、手術をすることになりました。

 手術のとき全身麻酔をすると、よくうわごとをいう人がいるそうです。ブルームさんも麻酔をかけられると、なにかブツブツとつぶやきはじめました。それは「ナモアミダブツ、ナモアミダブツ」と念仏をとなえていたのでした。これをきいた医師はびっくりしました。人の悪口などを言うのは聞きなれていました。しかし、念仏をとなえる人ははじめて、しかも外国人の口からでしたので、よほどびっくりされたのでしょう。この医師はこれが機縁で、ブルームさんから『歎異抄』のお話を聞くようになったということです。     私はこのことをブルームさんがハワイに帰国したのちに聞かされて、一度お会いしたいと思っていたのでした。それがウィーンで実現し、それいらい親しくおつきあいをさせていただくようになりました。

 最近、私がブルームさんに会ったのは一九九九年(平成一一)の春でした。たまたま私は心臓を悪くし、ペースメーカーを埋め込む手術をすることになり、ブルームさんが手術をしたときのことを思い出していました。麻酔をかけられると心の中に秘めた思いが口から出るのではと危倶していたのですが、私の場合は全身麻酔ではなく局所麻酔でしたので、事なきを得たのでした。
 そんな折、ブルームさんから手紙が来ました。「このたび仏教伝道協会から沼田文化賞をいただくことになったので、訪日し、京都に行くから会いたい」という文面でした。 さいわい私はブルームさんが京都に来る二日前に退院できましたので、久しぶりの再会を果たしました。
○ピントさんとの出合い
 ブラジルのグスタボフ・ピントさんに出会ったのも、ブルームさんとはじめて会ったウィーンの会議のときでした。

 ピントさんについては、かねてよりIABCの役員の方から、たいへんありがたい念仏者だということは聞いていました。

 ピントさんとの初対面の印象は、頭は丸くきれいに剃っておられ、はっきりした発言、きっちりした行動は、禅僧と話しているような感じをうけました。しかし、会議での発言は浄土真宗の教えをしっかりと理解された内容でした。

 これよりさき、ケニアのオサカ夫妻が浄土真宗についての著書を読み、親鸞聖人の教えに帰依し、宗教法人「ケニア真宗」を設立し、宗教活動をしている、しかし施設建設の資金がなく困っているので、経済援助をしてほしい旨を、アメリカのIBSに依頼してきていました。そしてIBSからこのことを日本のIABCに連絡してきました。     IABCとしてはケニアのオサカさんが、本当に浄土真宗の教えを信奉しているのかどうか、明らかではありませんでした。

 そこでウィーン会議に出席していたピントさんに、ブラジルへの帰路、ケニアに立ち寄って、オサカさんのことを調べてくださるように依頼しました。
 このことにつきピントさんの調査報告によりますと、オサカ夫妻の真宗教学の理解は十分ではないが、ともかく懸命にお念仏をひろめようと努力している、としるしていました。そしてオサカさんの質問の中に、つぎのような内容があったそうです。

 「浄土真宗では妻が複数いてもよいのでしょうか」と尋ねたというのです。ケニアは一夫多妻制でした。キリスト教は一夫一婦を要求しましたので、ケニアではキリスト教がひろく浸透しにくいという実情がありました。そこでオサカさんがそのような質問をしたのでした。

 それに対しピントさんは「浄土真宗は妻が一人であろうと複数いようと、阿弥陀さまのお救いには関係ありません。ただ阿弥陀さまのお救いを信じてお念仏すればよいのです」と答えたということです。     私は、オサカさんに対するピントさんの応答をきいたとき、親鷲聖人が結婚問題で悩まれたときに、法然上人との間で交わされたという会話を思いおこしました。それは法然上人が「現世をすごすには、念仏がとなえられるようにすべきです。念仏のさまたげになるものは、すべて捨てさるべきです。(妻帯しない僧)では念仏できないというのであれば、妻帯して念仏しなさい。妻帯したために念仏ができないというのであれば、聖になって念仏しなさい」といわれたということです。

 ピントさんは大学教授でしたが、浄土真宗に帰依して僧となり、学解ともに抜きん出た念仏者でしたので、オサカさんの問いに、当意即妙に対応したのでした。

 こうしたピントさんの調査報告によって、オサカさんが浄土真宗の念仏をひろめようとしていることが判明し、IABCでは援助を開始しました。
○デュコールさんを見直す
 一九九〇年のウィーンの会議では、私にとってブルームさん・ピントさんとのはじめての出会いのほか、いまひとつスイスのデュコールさんについて、大変ショッキングな出来事がありました。

 ウィーン会議のとき、私の前任者のIABC前理事長山崎昭見先生の追悼会が催されました。このときデュコールさんの調声で『阿弥陀経』を読誦しました。

 デュコールさんは一九八一年と八七年の二度にわたり龍谷大学に留学し、存覚上人(本願寺第三代覚如上人の長男)の研究を行っていました。漢文や日本の古文書の読解力は、日本人学生も及ばぬ能力の持ち主でした。私は彼を単に日本仏教に興味を持った学者として応対していました。

 帰国後、学位論文「存覚上人の生涯」によってジュネーブ大学から文学博士の学位を授与されました。その後、カナダのマキギル大学の助教授、スイスのローザンヌ大学の講師などを経て、ジュネープの民族博物館の東洋部長になりました。     こうした経歴の持ち主のデュコールさんが、『阿弥陀経』を誦みはじめたのですが、それは極めてゆっくりとした調子で丁寧に読経をリードしました。

 法会が終わって、ある人がデュコールさんに「お経をずいぶん時間をかけて誦みましたね」といいますと、彼は「お経の言葉をみて、仏さまは、ここではこういうことを言っておられるのだなと、そのお言葉の意味を考えつつ誦みましたので、ついおそくなりました」と答えたのです。

 私はこのデュコールさんの言葉を聞いて大きな衝撃をうけました。私が『阿弥陀経』の読経に要する時間は、デュコールさんの半分足らず、しかもお経のお言葉を味わうこともなく、ただうわの空で誦んでいます。     釈尊は『阿弥陀経』の中で、「於汝意云何」(あなたは私の話を聞いて、どのように思いましたか)というお言葉を二度にわたって述べておられます。私は「於汝意云何」の問いかけを無視して、ただ口さきだけでお経を誦んできたのです。この私の姿勢をデュコールさんによって知らされ、大変はずかしく思ったのでした。

 このことがあっていらい、私はデュコールさんに、単なる仏教研究者としてではなく、真摯な念仏者として接するようになりました。

 私にとって初めてのウィーンの会議は、大変ありがたい有意義な会合でした。それ以後、ヨーロッパ真宗会議に出席するたびごとに、ヨーロッパの念仏者が、キリスト教社会において、さまざまの困難を克服して念仏を伝えようと努力する姿に接し、頭が下がる思いを深くしたことでした。
○千葉乗隆 ちばじょうりゆう 千葉山安楽寺住職
 一九二一年、徳島県に生まれる。龍谷大学文学部国史科卒業。元龍谷大学学長。現在、本願寺史料研究所員、国際仏教文化協会理事長、徳島県安楽寺住職。主な著書に『本願寺ものがたり』【蓮如上人ものがたり』『親鸞聖人ものがたり』「真宗重宝聚英」(共著)『講座蓮如』(共著)などがある。
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