思い出深き念仏者
(連載第5回(最終回) 自照社出版 自照同人 第19号 2003/11)
千葉 乗隆   
     
○北条恵実さんとの出合い
 前号で、私は一九九四年(平成六)九月にアメリカ・バークレーのIBS (仏教大学院) のアルフレッド・ブルーム教授の退職記念講演会に招かれ、その際、ロスアンゼルスで宮地廓慧先生に久方ぶりでお会いしたことを書きまし た。

 翌一九九五年八月に再び招かれましたので、また宮地先生にお目にかかれると楽しみにしていましたが、お会いできませんでした。ただしご子息からお変わりないとのことをお聞きして安心しました。宮地先生との再会はかないませんでしたが、このとき北条恵実さんに六〇年ぶりにお 会いしました。

 北条さんは宮地先生と同じく、横田慶哉先生を師と仰ぐお方でした。横田先生の側近にし、私の父の寺にも来てくださいましたが、一九三六年(昭和一一)、二五歳の時、アメリカの開教使となりソルトレークに赴任されました。それいらい年賀状や書状などが父のもとに届くようになりました。     小学生だった私には北条さんがどのようなお方であったのか、全く記憶にありません。私の心に印象づけられたのは、北条さんご自目身からではなく、そのお手紙からです。
外国からの手紙など全く来なかった時代に、アメリカの珍しい切手をながめつつ、いつとはなく「ソルトレークの北条さん」という名前が、私の頭にインプットされたのでした。

 このたびの訪米も前年とほぼ同じスケジュールで、バークレーのIBSの夏期特別講座で、蓮如上人について講義しました。そのあとサンノゼに移動し、レッド・ライオン・ホテルを会場に三日間にわたり開教使研修会が開かれました。その三年後に蓮如上人五百回忌をおむかえするので、ここでのお話も「蓮如上人の改革と伝道」というテーマでした。

 研修会終了の翌日はサンノゼ別院の 永代経法会で法話たのですが、このサンノゼ別院で、北条さんと再会しました。     北条さんとの話は六〇余年前にさかのぼりました。徳島の父の寺に横田先生のお供をして来てくださったとき、三日間の法座でしたが、二日目に横田先生は持病の高血圧で倒れてしまわれ、北条さんに代わりにお話しするように、と言われました。「突然の出来事に何を話してよいやらわからず、ともかくお話ししたものの、何を言ったのか全く記憶になくて、あの時ほど困ったことはありません。いまも思い出すと身の縮む気がします」などと語ってくださいました。

 北条さんは福井県の出身で、龍谷大学を卒業すると、横田先生が伝道の拠点の一つとされた大阪市福島の昭和院に住みこんだとのこと。これを聞いて、私は両親に連れられて昭和院に行き、お堂にびっしり坐った人びとが力強い声で念仏していた姿を思い出しました。
 この昭和院は大阪の由井宇三郎氏が一九二九年(昭和四)に横田先生の布教の道場として建て、先生は毎月七日間ここで説法されたということです。     そしてこの昭和院ができたとき留守居を務めたのが 甚野諦観師、横田先生の代講を務めたのは西本誠哉師であったことなど、北条さんの口からなつかしい方たちの名前が出ました。

 北条さんは開教使を定年退職ののち、サンフランシスコの日米時事新聞の編集を手伝っているとのことで、このあとその新聞に、今度の私の講演内容や北条さんとの会話などについて「邂逅」というタイトルで五回にわたり掲載してくださいました。それは私を大層持ち上げてくださるような内容で、私はそれを読んで、北条さんのご厚情をありがたく感謝するとともに、たいへん面映く感じました。私は北条さんが書いてくださったような立派な学僧ではありません。学僧のような仮面をつけているだけです。

 親鸞聖人の「 外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐いて >貧瞋邪偽、奸詐百端にして悪性侵めがたし」(『教行信証』信巻、賢く善人らしい格好はやめなさい。あなたの心の中は、うそ、仮り、むさぼり、いかり、よこしまな思いが絶えず起こって、それを断ち切ることができない身なのだから)とのお言葉は、まさに私にむかって お諭しくださっているのだと反省をしたことでした。
○西本誠哉先生の思い出
 北条さんとの会話の中で、横田先生門下の方たちの思い出のお話をお聞きしました。その方たちの中で、私の印象に残る西本誠哉先生と甚野諦観先生について述べたいと思います。
 西本先生は横田先生の後継者とみられたお方で、実際に横田先生亡きあと、門下生の先頭に立ち先生の教えを語り伝えられました。

 父の寺にもしばしば説法においでくださいました。小学生の私にお話の内容は理解できませんでしたが、まじめな厳しい先生であるとの印象をうけました。

 父が京都上津屋の善照寺に横田先生をおたずねした時の思い出を、『横田慶哉先生追慕録』に「遠慶宿縁」と題してしるした中に、西本先生との出会いについて、つぎのように述べています。
 西本先生が来られましたとの声に、私はかねて先生が立派な御人格の方であり、熱烈な御信心の方であると承っていましたので、さっそく御紹介いただき、お話をうけたまわりました。

そのとき先生は、二河白道の「我れ今 回るもまた死せん、ゆくもまた死せん」の所謂三定死のおたとえのように、あなたは行きづまったといわれるが、言葉のある間は、ほんとうに三定死ではありませんよ。

今日死ぬかもしれないというのでは、いまおたすけの声はきこえませんよ。「今死せんこと疑いなし」と、今であることをつきつめたとき、そこにきこえてくださるのが 「汝一心正念して直ちに来れ」の仰せですよ、まだまだ真剣に「いま」であることをつきつめなさい、と諄々と御教示くださいました。
 こうして父は西本先生のご催促と横田先生のご教示によ って、阿弥陀さまのお慈悲に気づかせていただいたことを回顧しています。  ところで、横田先生のもとに集う人びとが多くなると、先生の説く教えは異安心ではないかとの疑いをいだく人が出てきました。西本先生はその疑いを解くために尽力されたのでした。このときのことを先生は『横田慶哉先生追慕録』の「先師の異安心問題」と題した項目の中でつぎのようにしるしています。
 先師の信仰に疑いをかけた問題点を今一度回顧して、先師の信仰を明らかにし稿を結ぼうと思う。
 その
第一点は入信の年月日時の記憶と一念覚知の問 題。
第二点は善知識だのみと印可の問題。
第三点は信心と歓喜の問題。
第四点は罪悪観と機の深信の問題。
以上の四点が批判の主なるものであった。

 そもそも学問的理解による観念的信仰を正統安心とする立場に立つ人の日には、先師の信仰はそのようにも映ずるであろう。先師においては年月日時の沙汰などかつてせられたことがなかったし、一念覚知は一念不覚と共に自力のはからいとして否定されていた。 善知識など毛頭あるもなく、印可などは以ての他で、歓喜正因を説かれたこともなく、罪悪感は入信の階梯として教えられたにすぎない。

ただ先師の肺腑をつき、舌端火をふくような 説法示談によって 宿善開発した多くの信者が、心機一転の告白をするに当って、入信の年月をのべ、善知識の宏恩を謝し、 歓喜踊躍することは、これ当然であって、これを年月日時の記憶の有無を沙汰せし三業帰命と同視したり、さまざまの想像をめぐらし、異安心の妄想を作りあげていたようである。

観念化された信仰を正統なものとしている人びとの目には、先師の周囲に群がる多くの信者の心理状態はどうしても理解できないのは当然である。
 この異安心の問題は、父のいる徳島にも飛び火しました。ある寺で横田説に反対する講師を招待して批判の会を開くと、横田説に賛成の寺々では、反論の会を催すということで、両者の間に激しい論争が展開されました。

 いっぽう、このことを契機に多くの人びとが浄土真宗に強い関心を持つようになりました。

 江戸時代に檀家制が成立していらい、一般の人にとって寺は檀家の葬式や法事を執り行う存在という認識が強かったようです。そうした風潮の中で、今度の信心をめぐる論争は、人びとの寺に対する認識を改める契機となったの でした。
○甚野諦観先生の思い出
 甚野先生がはじめて徳島の寺においでくださったのは、私が小学生の頃です。それいらいしばしばお見えになられたので、そのお姿とお名前は覚えているのですが、どのようなお話をされたのかは、これまた記憶にありません。

 甚野先生は横田先生が亡くなられて二年後、一九四一年(昭和一六)に開教使として台湾に赴き、終戦後に帰国されて、布教活動を再開されたとのことです。

 私のほうは二年ほど兵役につき、終戦後に龍谷大学の大学院に学びました。この大学院時代に甚野先生と親しくおつきあいさせていただくことになったのです。

 甚野先生は事前に連絡なく、ふいに来られることが多く、しかも私のところに直接ではなく、京都女子大学に勤務していた山田(本田)冨乃さんを通じて「明日、京都へ行くからよろしく」といった具合です。     その頃、私は京都の西大路七条に下宿していました。こ の下宿で甚野先生のお話を聞くことにしていましたので、 私は急ぎ友人に連絡し、山田さんも友人を誘ってやってき て、夕方から夜遅くまで、先生の法話をききました。

 先生の法話の要点は、「自身は、これ、現に罪悪生死凡夫、曠劫よりこのかた、つねにしづみ、つねに流転して、出離の縁あることなき身と知れ」との善導大師のお言葉を引用し、罪悪深重の凡夫であるとの自覚を持つことが大切で、このどうにもならない悪業煩悩の私を救わんがために阿弥陀如来はましますのだということを強調されました。

 先生は一見すると飄々とした風貌のお方で、その姿をみて私は禅宗の良寛さんを連想しました。しかし、事がご法義のことになると、舌鋒鋭く熱心に話されるのでした。

 その後、私は大学院を卒業した年に体調を悪くして徳島に帰りましたので、甚野先生とのご縁はそこで途絶えました。     私は一九八九年(平成元)に龍谷大学を退職しましたが、その後も社会人を対象とする講義だけは担当していました。青年から中高年層まで、いろいろの職業のみなさんが 聴講してくださっていましたが、そうした方たちの中に、特に熱心に聴き、質問される一組の中年のご夫婦がおられました。

 このご夫婦は甚野先生のお嬢さんとご主人でした。ご主人は科学技術関係のお仕事をしておられたということですが、甚野先生の興された岡崎市の三河草庵(西法寺)を継ぐために僧籍をとられ、住職になる勉強をしておられるとのことでした。

 たまたま私は本稿で甚野先生の思い出を書かせていただこうと思っていましたので、先生のご著書など何か資料はございませんかとお尋ねしますと、さっそく島根大学仏教青年会の編集した『いのちに光る−甚野諦観先生遺稿集』を送ってくださいました。     この遺稿集には先生の晩年一〇年間の、島根大学の仏教青年会および各地でのご法話が集録されていました。

 私はこの遺稿集を拝読し、青壮年期も老年期も変わることない一貫した先生のご信心のほどを大変ありがたく偲ばせていただいたのでした。

 この遺稿集の最後には短歌・川柳が掲載されています。先生が歌を詠まれるとは全く存じませんでした。その歌の中から三首ここに転載させていただき、この稿を終わることにいたします。
弥陀の慈悲この胸底を照しづめ
泥沼の胸にこそ咲く信の花
われなきに仏の種は仏から
○千葉乗隆 ちばじょうりゆう 千葉山安楽寺住職
 1921年、徳島県に生まれる。龍谷大学文学部国史科卒業。元龍谷大学学長。現在、本願寺史料研究所員、国際仏教文化協会理事長、徳島県安楽寺住職。主な著書に『本願寺ものがたり』『蓮如上人ものがたり』『親鸞聖人ものがたり』『真宗重宝聚英』(共著)『講座蓮如』(共著)などがある。
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