臨終の善悪をば申さず
(仏教文化研究会編 親鸞聖人一人一話
(株)探究社
1999/春)
千葉 乗隆 千葉山安楽寺
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妙好人ブルームさん
恵信尼さまの夢
表紙写真説明
《親鸞聖人一人一話表紙写真》「親鷲聖人御絵伝」
○妙好人ブルームさん
先日、私は急に心臓病が悪化して入院しました。医師に「直ぐ手術をしないといけません」と告げられたとき、ある事を思い出し、心中に一抹の不安をいだきました。
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それはアルフレッド・ブルームさんが心臓の手術をしたときの出来事です。一九八二年、当時ハワイ大学の教授であったブルームさんは、京都で親鸞聖人のみ教えを学んでいました。ある日、ブルームさんは心臓発作で倒れ、救急車で病院に運ばれ、緊急に手術をすることになりました。
手術のとき全身麻酔すると、よくウワ言をいう人がいるそうですが、ブルームさんも麻酔をかけられると、なにか「ブツブツ」と言いはじめました。何と「ナモアミダブツ・ナモアミダブツ」とお念仏をとなえていたのです。
これを聞いた医師はびっくりしました。身近な人の悪口を言うことなどは見慣れていました。しかし、お念仏をとなえる人ははじめて、しかも外国人の口からなのですから。これが
機縁
で、この医師はブルームさんから『歎異抄』のお話しを聞くなど、仏法に関心を持つようになりました。
さて手術に当って、私が
危惧
したのは、麻酔をかけられると、心の中に秘めた思いが口から出るのでは、ということでした。しかし、私のばあいは、全身麻酔ではなく局部麻酔でしたので、事なきを得たのでした。
そんな折、たまたまブルームさんから手紙が来ました。「このたび仏教伝道協会から沼田文化賞をいただくので訪日し、京都に行くから会いたい」という文面でした。
さいわい私の心臓はペースメーカーの助けにより回復し、妙好人ブルームさんとの再会を果たしました。そして、ブルームさんは、いまだに心臓病と縁が切れず、狭心症を抑制する薬を飲んでいるとのことでした。
ブルームさんはアメリカのハーバード大学で仏教を学び、一九五七年から二年間、日本で親鸞聖人の教えと生涯について研究しました。帰国後オレゴン大学とハワイ大学で教壇に立たれたあと、バークレーの仏教大学院に移られ、一九九四年に大学院を退職されました。その退職記念講演会に私は招待され渡米しました。
その折に、私はバークレーの沼田
仏典翻訳
研究所を訪ねました。この研究所は仏教聖典 を外国語に翻訳する作業に当っており、翻訳した聖典は仏教伝道協会が、世界各国のホテ ルに寄贈しています。
この研究所の仏間に
葉上照澄
師が書いた「南無
三宝
」の名号を安置していました。これをみて私は、渡米するすこし前に
宗政五十緒
さん(国文学者・龍谷大学名誉教授)から聞いた葉上師に関することを思い起こし、そのことを研究所の山下清志さんに話しました。それは次のような内容です。
宗政さんも心臓病で入院し手術をしました。病状が悪く仮死状態になりました。その時、宗政さんは、ふと気がつくと、大変明かるい輝く世界に居ました。そこには仏さまと観音さまが居られ、やがて生前に知己の葉上師が出てきて、お話しをしました。宗政さんが「
沙婆
にたくさん仕事を残してきました」というと、観音さまが「それじゃ帰っていらっしやい」といわれました。やがて宗政さんは、病床に横たわる自分の姿に気がついたといいます。
これまで宗政さんは、お浄土の存在には
懐疑的
でした。しかし、このことがあっていらい、お浄土が実在することを確信するようになったと、私に話してくれました。私が山下さんにこのことを申しますと、山下さんは「実はブルームさんもお浄土をみた」といって、つぎのような話しをしてくださいました。
ブルームさんが京都の病院で心臓の手術中、お念仏をとなえていた時、お浄土をみたというのです。ブルームさんの目に、薄いカーテン越しに明かるいすがすがしい世界が見えました。そこにはどなたか居られるようで、たぶん仏さまのようでした。そのお方に、ブルームさんは、「私はこちらの世界でしなければならないことがありますので、いまそちらへ行くことはできません」と申しますと、帰されたのだといいます。
このお浄土をみたことを、ブルームさんは、奥さまと、親友の山下さんのお二人だけにしか話さなかったということです。
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○恵信尼さまの夢
ここに私は親鸞聖人の
内室
恵信尼
さまのお手紙にみえる夢のお話し
を思うのです。
恵信尼
さまは
常陸国下妻
(茨城県下妻市)坂井に住んでおられたとき、夢をみました。 その夢は「法然上人は
勢至菩薩
、親鸞聖人は
観音菩薩の化身
である」という内容でした。
恵信尼さまは、親鸞聖人に「法然上人は
勢至菩薩
の
化身
であるとの夢をみました」と申しあげると、聖人は「それは実夢である」といわれました。しかし、聖人ご自身のことについては申しませんでしたが、恵信尼さまは、それ以来、聖人を観音さまの化身として尊敬したということです。
この夢のことを、恵信尼さまは、聖人ご往生ののち、
覚信尼
さまに、はじめて打ち明けました。それは、つぎのような経緯によるものです。
覚信尼さまは、晩年の親鸞聖人をお世話し、ご臨終に立ち会いました。覚信尼さまは、 聖人のご臨終には
奇瑞
なども起り尊くめでたいご往生であろうと思っていました。しかし、なんの不思議なこともなく、あるいはご病気で苦しみながらのご最後だったかも知れません。
聖人ご往生の三日後に、覚信尼さまは、母の恵信尼さまに宛てた手紙をしたため、ご臨終の有様についてふれ「あのような状況で、お父さまはお浄土にご往生されたのでしょうか」との
疑念
を打ち明けられたようです。
恵信尼さまは、
この手紙をみて、さっそく返書をしたため
ました。先ず最初に「聖人が浄土にご往生されたことは申すまでもありません」と書き、ついで聖人が法然上人のもとで、お念仏によってお浄土まいりできる道をえらばれたことをしるし、さらに聖人は観音さまの化身であるとの夢について書き、「聖人のご臨終がどのようであれ、お浄土に生れられたことは疑いありません」としるされたのでした。
聖人は八十八歳の時に
乗信房
に宛てたお手紙に「
善信
(親鸞)が身には、臨終の善悪をば申さず、信心
決定
のひとは疑なければ
正定聚
に住することにて候なり」といわれ、また
『歎異抄』(第十四条)
に「
業報
かぎりあることなれば、いかなる不思議のことにもあひ、また
病悩
苦痛せめて、
正念
に住せずしてをはらん、念仏申すことかたし。…
摂取不捨の願
をたのみたてまつらば、いかなる不思議ありて、
罪業
ををかし、念仏申さずしてをはるとも、すみやかに往生をとぐべし」といわれています。
私が心臓の手術に当っていただいた不安は、日頃心にいだく思いが口から出るのでは、 というおそれとともに、ブルームさんを見習いたいという、ひそかな願いもありました。 さらに、それは、単に手術の時だけでなく、いずれ命が終るときにも、そうありたいとい うことでもありました。
しかし、前掲の親鸞聖人のお手紙の文面にもありますように、臨終の善悪にかかわりな く、お念仏を口ずさみつつ命が終わろうと、痛い痛いと苦しみながら死のうと、阿弥陀さ まの摂取不捨の願をたのみたてまつる者は、必ずお浄土に生れさせていただけるというこ とです。
臨終のありようにこだわる私の思いは、この世の単なる見栄にすぎず、いらぬ
計らい
心は捨て去って、阿弥陀さまにおまかせする以外にないのだということに気付かさせていただいたことでした。
(元・龍谷大学学長)
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《表紙写真説明》
「親鷲聖人御絵伝」第二幅第二段右上=建仁元年(一二〇一)、親鸞聖人は、これまでの自力による修行の道を放棄され、専修念仏を説かれている法然聖人の門下に入られた。聖人二十九歳のときである。そして承元元年(一二〇七)の法難(念仏弾圧)で越後に流罪になられるまで、法然聖人のもとで過された。
表紙の絵はその時のもので、浄土往生は信心によって定まる(信不退)のか、数多く念仏を称えることによって定まる(行不退)のかを、法然聖人のもとにいる多くの門弟に問い正してみたいと、法然聖人(中央奥)に親鸞聖人(左端)が、お願いされている場面。
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(仏教文化研究会編 親鸞聖人一人一話
(株)探究社
刊 1999/春)