(仏教研修会 第300回) 1998/06/28 蓮如上人の生涯とその教え

◎蓮如上人(1415~1499、85歳)
   と本福寺法住(1397~1479、83歳)

応永 03(1396)年本願寺第8代蓮如の父存如生まれる。
   04(1397)本福寺第3代法住生まれる。
   20(1413)法住、初めて本願寺へ、ついで仏光寺に参る。
   22(1415)蓮如、生まれる。
   23(1416)法住、本願寺に帰参する。
正長 元 (1428)延暦寺、法住の志賀郡紺屋支配を安堵する。
長禄 04(1460)蓮如、法住に無碍光本尊を免許する。
寛正 02(1461)蓮如、法住に親鸞・蓮如座像を免許する。
   05(1464)蓮如、法住に親鸞絵伝を免許する。
   06(1465)延暦寺衆徒、本願寺を襲う。
応仁 元 (1467)親鸞真影を本福寺に移す。応仁の乱起こる。
  02(1468)親鸞真影を大津に移す。衆徒、堅田を襲う。
文明 02(1470)堅田衆、衆徒と和解し、 沖島から堅田に帰る。
   03(1471)蓮如、堅田を経て、越前吉崎へ行く。
   09(1477)法住、蓮如に堅田御坊を建て寄進する。
  11(1479)法住没(83歳)。

◎「本福寺由来記」
1、無碍光本尊御免の事
願主法住、長禄四庚辰2月24日、大谷本願寺釈蓮如御判
本福寺のウツボ字の無碍光は、しる谷(仏光寺)の光明ほんより、はばひろく、又たけ長く、天下にたぐいなくこそあそばしける。
      
2、御開山御影様御免御下向の事ならびに御寿像
大谷本願寺親鸞聖人之御影、江州堅田法住道場常住物也、
寛永2年辛巳12月23日、大谷本願寺釈蓮如御判
蓮如上人様御寿像いづくへも御ゆるされなしといえども、法住にはじめて御免あるなり。そのおりふしは先住上人様の御寿像を所々よりのぞみ申さるといへども、法住のわれは不思議の御慈悲かうむるところは、しかしながら上様の御恩と存知候へば、忝(かたじけなく)候とて、上様の御寿像をも望申されければ、やがて御免あり。めでたくありがたき御慈悲なり。
      
3、御伝絵御免御下向の事
大谷本願寺親鸞聖人之縁起、江州志賀郡堅田法住道場常住物也、
寛正五歳甲申4月23日、大谷本願寺釈蓮如御判
画師を召れ、いずれのよりも人形を、いかにも大きにかけ、法住このみぞと仰ける。
      
4、御本寺様の生身の御影、本福寺へ御下向の事
寛正六歳簇(1月)中旬ころ、京都室町に御座ありて、それより今法寺(金宝寺)へ御移りなり。其後、御座ミブ(壬生)へかえさせられ、やがて江州栗本の郡安養寺かうし坊(幸子坊)の道場へご下向ありて、70日ばかり御座候なり。

さて赤野井より御うしろさまにおいたてまつりて、その浦より御船にめされ、応仁元の歴交鐘(2月)上旬のころ当初下ばば、からさきのはまへ御船をつけ申され、馬場本福寺道場へ御光臨おわしまし、その年の霜月(11月)21日の夜より蓮如上人様御下向ありて、

28日まで七昼夜の知恩報徳の御仏事の御つとめ、するするとなんとなくわたらせおわしますところ、希代未曾有の御いとなみ、世上代も中ごろも、ためしすくなくこそおわします。よろこびの中のよろこび、幸の中の幸、本懐満足、何事かこの一大事にしかんや。諸々より御参詣いくらと申すかぎりを存ぜず。
      
5、文明10年頃、法住、年頭のあいさつに
     出口御坊滞在の蓮如上人を訪ねる。
この春は、八十(やそじ)にあまる年寄りを、寒き嵐に、身をおかぬさと   蓮如

いのち程、めでたきものは、あらじよも、又もまいりて、おがむ君かな    法住
      
注:
添付図あるも表題のみ記載する
法住の比叡山の段「登山名号絵伝」(滋賀 本福寺蔵)
堅田本福寺(蓮師500回忌記念参拝)

地名
滋賀県滋賀郡志賀町
滋賀県大津市堅田 (滋賀郡堅田町が昭和42年4月1日大津市に合併)
滋賀県近江八幡市沖島町 (琵琶湖の島、主として漁業、現在人口500人余)
福井県坂井郡金津町吉崎
京都市中京区壬生
滋賀県栗太郡栗東町安養寺
滋賀県守山市赤野井町
滋賀県大津市唐崎