(仏教研修会 第315回) 1999/11/28 浄土真宗の歴史に学ぶ

顕如上人(天文2年・1543~文禄元年・1592)とその時代

1、親鸞聖人300回法会 永禄4年(1561)顕如19歳
 100回忌  康安元年(1361)第四代善如  法会勤修の記録なし。

 200回忌  寛正2年(1461)第八代蓮如  大雪のため参詣人少なし。

 250回忌  永正8年(1511)第9代実如  参詣人山科本願寺御影堂に充満。

 300回忌  11月の命日を避けて3月に10日間勤修。

    前々年永禄2年(1559)本願寺顕如、門跡なり勅許。門跡成りによって他宗僧侶も300回忌に招待。
   法会の儀式は天台宗に則り七条袈裟を着用し、登壇行動する。

2、寺内町焼失、伽藍炎上
 永禄5年(1562)
  寺内町火災、民家2000軒焼失、伽藍は無事。

 永禄7年(1564)
御影堂(明応6年・1497 蓮如造営)、阿弥陀堂(天文11年・1542 証如造営) 等の諸堂と寺内と民家約900軒が焼失。翌年、阿弥陀堂と御影堂を造営。

3、織田信長に攻められる。元亀元年(1570)~天正8年(1580)
 『信長公記』(太田牛一)にしるされた大坂本願寺

 そもそも大坂はおよそ日本一の境地なり。その子細は、奈良・堺・京都に程近く、 ことさら淀・鳥羽より大坂城戸口まで舟の通い直にして、四方に節所をかかえ・・・・・ 西は滄海漫々として、日本の地は申すに及ばず、唐土・高麗・南蛮の舟、海上に出入り、 五幾七道集まりて、売買利潤富貴の湊なり。

 隣国門家馳せ集まり、加賀国より城作りを召し寄せ、 方八丁に相構え、真中に高き地形あり。

 ここに一派、水上の御堂をこうこう(煌々) と建立し、前に池水をたたえ、一蓮托生の蓮を生じ、後には弘誓の舟を浮かべ、 仏前に光明を輝かし、利剣即是の名号は煩悩賊の怨敵を治し、仏法繁昌の霊地に在家を立て、 甍を並べ、軒を継ぎ、福祐の煙厚く、ひとえにこれ法を尊み、遠国波島より日夜朝暮、 仏詣の輩、道に絶えず。

 『信長公記』にしるされた「荒木たし」の殉難

 荒木たし摂津国の領主荒木村重の妻、村重は信長の配下として大坂本願寺を攻撃。 配下の家臣に本願寺に内通する者があり、天正6年(1578)村重も本願寺に加担。 村重の部下の高槻城主高山右近も信長に離反したが、キリスト教の神父の説得で信長方 に復帰した。

 天正7年(1579)村重は、居城の有岡(伊丹)城を出て、毛利氏に救援を求め、 尼崎城に入る。その留守に有岡城は信長軍によって陥落。村重の一族150余人が処刑。


 荒木たし(21歳)等の辞世の歌
 荒木たし
  みがくべき心の月のくもらねば光と共に西へこそ行け

 村重の娘・15歳
  露の身の消え残りても何かせん南無阿弥陀仏にたすかりぞする

 たしの侍女おいち
  世の中の憂き迷いをばかきすてて弥陀の誓いに会うぞうれしき