(仏教研修会 第336回) 2002/2/17 浄土真宗の歴史に学ぶ
『歎異抄』が語る親鸞聖人3
1.『歎異抄』の著者
『歎異抄』には著者の名がしるされていない。はじめからしるされていなかったのか、書 写する途中で欠落したのか、なにぶん原本が存在しないので、その有無は明らかではない。 江戸時代に、『歎異抄』の研究が行われるなかで、著者の推定がなされた。親鸞の孫如 信(1235~1300)とする説、あるいほ親鸞の曾孫覚如(かくにょ1270~1351)を 当てる説もあった。
それは、寛如が如信から口授されたという親鸞の法話を収録した『口 伝鈔(くでんしょう)』と、同じく覚如の著書の『改邪鈔(がいじゃしょう)』に、それぞれ『歎異抄』と同じ内容の記事がし ばしばみえるためである。
江戸時代後期の学者了祥(りょうしょう 1788~1842)は、はじめ『歎異抄耳そん(じそん)』 に如信説 をたてていたが、晩年の著書『歎異抄聞記(もんき)』において厳密に考証した結果、唯円(ゆいえん)説を提唱 した。これ以来、著者ほ唯円との見方が定着する。
親鸞門弟の名簿『親鸞聖人門侶交名牒(もんりょきょうみょうちょう)』によると、唯円を名のる門弟は四人いる。そ の中で、『歎異抄』の著者として、常陸(ひたち茨城県)河和田(かわだ)の唯円と、常陸鳥喰(とりばみ)の唯円の二 人の名が挙げられる。両人は同一人であるという説もある。
鳥喰の唯円については、その 存在を証明する他の文献ほない。しかし、河和田の唯円については、覚如の伝記絵巻『慕 帰絵(ぼきえ)』にも登場し、その当時、大徳(徳の高い立派な僧)と尊敬されていたので、彼を著 者に当てる説が有力である。
『慕帰絵』によると、覚如は十八歳の弘安十年(1287)に如信によって、法然から親 鸞へとうけつがれた浄土真宗の法統を伝授されたという。その翌年、正応元年(1288)冬には常陸国河和田の唯円が上洛してきたので、覚如は唯円に対面し、日ごろ不審に 思っていた善悪二葉など、いろいろの問題について質問し、疑問を解決したという。
この善悪二葉とは、寛如が『口伝鈔』第四条に述べる「善悪二葉の事」であると思われ る。
ここには 『歎異抄』第一条と第十三条の内容と同じ趣旨のことがしるされ、浄土に生 まれるためには、善もたすけとならず、悪もさまたげとならないことが述べられている。 おそらく覚如は、唯円と面談したときに『歎異抄』を手渡されて読んだのであろう。覚 如のために本書を著したのではあるまいかとの説もある。
しかし、前篇の序文に本書を書 く目的は、「同心行者の不審を散ぜんがためなり」とあり、また後記にも、同じ念仏の道 を歩む人びとの疑問を解くためであるとの趣旨がしるされているので、特定の個人のため に著したのではないとも考えちれる。
なお、『慕帰絵』には、「唯円大徳は親鸞聖人の面授(めんじゅ)なり。鴻才弁舌(こうさいべんぜつ)の名誉あり」とあっ て、唯円は親鸞に直接教えをうけた門弟で、すばらしい才能とたくみな弁説の持ち主であ るとほめたたえている。
『慕帰絵』の製作と同じ頃、覚如の門弟乗専(じょうせん1295~1353)が作った覚如の伝記 絵巻「最須敬重絵詞(さいしゅきょうじゅうえことば)」の絵柄(えがら)を指示した指図書(さしずしょ)に、覚如と唯円の出会いの場面について、 唯円の服装と年齢を「クビヲリ衣・ヌノノケサ・六十バカリ」とあり、年齢は六十歳ほど に描くよう指示しているので、この時の唯円の年齢が判明する。
唯円は常陸国大部(おおぶ)の平太郎の弟平次郎であるという説がある。平太郎も親鸞の門弟で、 親鸞の手紙にほ中太郎とその名がしるされているが、同一人物と思われる。また、寛如の 著した『親鸞聖人伝絵』にも平太郎が熊野(くまの)に参詣(さんけい)したときの話がみえる。
唯円の遺跡と伝える水戸市河和田町の報仏寺では唯円の没年を正応元年(1288)八 月と伝える。しかし、さきにも述べたように『慕帰絵』にしるす覚如と唯円の対面は同年 冬のこと、とするので、くいちがいがある。
大和(奈良県)下市(しもいち)の立興寺(りゆうこうじ)の伝承によると、唯円はこの地において、正応二年(1289)二月六日、六十八歳で死去したと伝える。この説によると『慕帰絵』の記事とのく いちがいは解消する。ここでは、正応二年六十八歳没ということで年齢を計算して、彼の 行動を述べることにする。
『歎異抄』第二条にしるす親鸞の息男善鸞が異義を説いたとき、唯円等東国門弟が上洛し て、親鸞に仏法について質問したのは、唯円が三十五歳の頃であった。
親鸞が東国を出て帰洛するのは、唯円が十三歳のころと推定されるので、唯円ははじめ 親鸞から直接教えをうけたのでなく、親鸞の門弟から仏法をきいて帰依(きえ)し、三十五歳の上 洛のときに、はじめて親鸞に出会ったのかもしれない。
唯円が四十一歳のとき、親驚が亡くなった。そして、この『歎異抄』を著すのは、本書 の後篇の序文に「そもそも、かの御在生のむかし」としるしているので、親鸞没後かなり 年時が経過していることがわかる。また後記の中に、「露命、わづかに、枯草の身にかか りてさふらうほどに」とあるので、唯円が死を間近にした晩年にしたためられたと推測さ れる。
これらのことから、『歎異抄』は、唯円が正応元年(1288)に覚如に会う少し前、 親鸞没後二十五年(弘安十年・1287)の頃までには成立していたものと考えられる。
2.『親鸞聖人門侶交名牒』にみえる唯円
直弟子唯円(常陸河和田)
曾孫弟子唯円(常陸鳥喰) (下野高田真仏-常陸国府信願-唯円)
孫弟子唯円(下野上町の尼法仏の弟子)
玄孫弟子唯円(真仏-武蔵荒木光信-願明-唯円)