(仏教研修会 第343回) 2002/9/22 浄土真宗の歴史に学ぶ
『歎異抄』が語る親鸞聖人10
『歎異抄』の第六条
第六条 現代語訳
阿弥陀さまの救いを信じて、もっぱら念仏する人たちのなかで、この人は自分の弟子だ、 あの人は他人の弟子だと、わけへだてをして争いをすることがあるようですが、それはと んでもない心得ちがいです。
この親鸞は、弟子は一人ももっておりません。そのわけは、わたしのはからいで、人に 念仏を申させるのであれば、その人は自分の弟子であるといえましょう。しかし、阿弥陀さまのはたらきかけによって念仏する人を、わたしの弟子であるということは、とんでもない間違いです。
人は、つくべき縁があれば、共につれそい、離れるべき縁があれば別れることもありま す。それゆえ、今までの師匠にそむいて他の人にしたがって念仏するものは、浄土に生ま れることができない、などというのは、決して言ってはならないことです。その人に阿弥 陀さまからくださった信心を、自分があたえたものであるかのように思い、とりかえそう とでもいうのでしょうか。このようなことは決してあってはならないことです。
念仏者の師弟関係は、そのような結びつきではありません。阿弥陀さまのおはからいに おまかせすれば、おのずからそのご恩もよくわかり、そして自分を念仏門に導いてくださ った師匠の恩もまたわかることでしょう。
このように、聖人は仰せになりました。
第六条 原文
専修念仏のともがらの、わが弟子、ひとの弟子といふ相 論のさふらうらんこと、もつてのはかの子細なり。
親鸞は、弟子一人ももたずさふらう。そのゆへは、わがは からひにて、ひとに念仏をまふさせさふらはばこそ、弟子に てもさふらはめ、弥陀の御もよほしにあづかつて、念仏まふ しさふらうひとを、わが弟子とまふすこと、きはめたる荒涼のことなり。
つくべき縁あればともなひ、はなるべき縁あればはなるる ことのあるをも、師をそむきて、ひとにつれて念仏すれば、往生すべからざるものなりなんどいふこと、不可説なり。如来よりたまはりたる信心を、わがものがほにとりかへさんとまふすにや。かへすがへすも、あるべからざることなり。
自然のことはりにあひかなはば、仏恩をもしり、また師の 恩をもしるべきなりと云々。
第六条 要旨
親鸞の教えに共感して念仏する人びとが多くなると、 親鸞を師と仰ぐ直弟子と、直弟子を師とする孫弟子も生ま れ、やがて、わが弟子、ひとの弟子というような、わけへだてをして争うなど、さまざまの問題が発生した。
このような事態に直面して、親鸞は、師匠とはなにか、弟子とはなにかと、あらためて自らに問いかけた。
そして、そうだ、自分には弟子は一人もいなかったのだ、すべて阿弥陀仏の弟子であり、念仏者は、みな、ことごと く、同じ浄土への道を歩む同行なのだと、気づかされたのであった。