(仏教研修会 第363回) 2004/09/26 浄土真宗の歴史に学ぶ

『歎異抄』が語る親鸞聖人26   

1.『歎異抄』の第十六条

第十六条 現代語訳

 阿弥陀さまの本願を信じて念仏する人が、たまたま腹をたてたり、悪いことをしたりして、念仏者の仲間と口論をすることがあると、必ずそのたびに回心といって、心を悔い改めなければならないということについて。

 このことは、あやまちを悔い改め、悪を断ち、善を修めて浄土に生まれようという考え なのでしょうか。

 阿弥陀さまの本願を信じてもっばら念仏する人にとって、回心ということは、ただ一度かぎりのことです。それは、日ごろ本願他力の教えを知らない人が、阿弥陀さまの智慧をいただき、これまでのような心では浄土に生まれることはできないと思って、それまでの 自力の心をすてて、阿弥陀さまの本願をおたのみすること、これを回心というのです。

 もしも、あらゆることについて、朝夕に、回心し、悪い心を改め善い行いをして、そのうえで浄土に生まれることができるということであれば、人の命は吐いた息を吸う間もな いうちに死ぬかもしれないはかないものですから、心を改める時間もなく、また静かに落 ちついた気持ちになるまえに死んでしまうかもしれません。そうすると、すべての人びとを救いとろうという阿弥陀さまの願いは達せられないことになるのではないでしょうか。

 悪い心がおこるたびに回心しなければならないという人は、口では阿弥陀さまの本願力 をおたのみするといいながら、心の中では、悪人を救うという本願がいかに不思議な力を もっておられるからといっても、やはり善人だけをお救いになられるのだろうと思ってい るのです。それは本願を疑い阿弥陀さまにおまかせするという他力の心が欠けています。 それゆえに、たとえ浄土に生まれても真実の浄土には行けず、辺地の浄土にしか行くこと ができません。これは、はなはだ嘆かわしいことであるとお思いになるべきです。

 信心が定まったならば、浄土に行くのは阿弥陀さまのおはからいによるもので、自分の はからいで行くのではありません。自分が悪いことをするにつけても、かえってますます 悪人を救ってくださる阿弥陀さまの本願のありがたさを思わせていただくならば、本願の 不思議な力によって、おのずからやさしくて落ちついた気持ちになり、またものごとに耐 え忍ぶ心も出てくるでしょう。浄土に生まれるためには、我を忘れて、何ごとにつけても こざかしい考えを持たないで、ただはればれと阿弥陀さまのご恩の、深くかつ重いことを いつも思わせていただくのがよいでしょう。そうすればおのずと念仏が申されることでし ょう。これが自然(おのずとそうなる)ということです。自分のはからいをまじえないこ とを自然といいます。これがすなわち他力ということです。それにもかかわらず、自然と いうことを、この本願他力とは別のものであると、ものしり顔をしていう人がいるという ことを聞きました。あきれた嘆かわしいことです。

第十六条 原文
一 信心の行者、自然にはらをもたて、あしざまなることを もおかし、同朋・同侶にもあひて口論をもしては、かならず 廻心すベしといふこと。この条、断悪修善のここちか。

 一向専修のひとにおいては、廻心といふこと、ただひとた びあるべし。その廻心は、日ごろ、本願他力真宗をしらざるひと、弥陀の智慧をたまはりて、日ごろのこころにては往生かなふべからずとおもひて、もとのこころをひきかへて、本願をたのみまひらするをこそ、廻心とはまふしさふらへ。

 一切の事に、あした・ゆふべに廻心して、往生をとげさふらうべくは、ひとのいのちは、いづるいき、いるほどをまたずしてをはることなれば、廻心もせず、柔和・忍辱のおもひにも住せざらんさきに、いのちつきば、摂取不捨の誓願は、 むなしくならせおはしますべきにや。

 くちには、願力をたのみたてまつるといひて、こころには、 さこそ、悪人をたすけんといふ願、不思議にましますといふ とも、さすが、よからんものをこそ、たすけたまはんずれと おもふほどに、願力をうたがひ、他力をたのみまひらするこ ころかけて、辺地の生をうけんこと、もつともなげきおもひ たまふべきことなり。

 信心さだまりなば、往生は弥陀にはからはれまひらせてすることなれば、わがはからひなるべからず。わろからんにつけても、いよいよ、願力をあをぎまひらせば、自然のことはりにて、柔和・忍辱のこころもいでくべし。すべて、よろづ のことにつけて、往生には、かしこきおもひを具せずして、 ただほれぼれと、弥陀の御恩の深重なること、つねはおもひ いだしまひらすべし。しかれば、念仏もまふされさふらう。 これ、自然なり。わがはからはざるを、自然とまふすなり。 これ、すなはち、他力にてまします。しかるを、自然といふことの、別にあるやうに、われものしりがほにいふひとのさふらうよし、うけたまはる。あさましくさふらう。

第十六条 要旨
 この条には、「自然回心」の異義を批判する。自然 回心とは、念仏者が、ふとしたことで、腹を立てたり、悪いことをしたときに、かならず回心して、悔い改めなければならないという考え方である。

 親鸞は、『唯信鈔文意』に、「回心といふは、自力の心を ひるがへし、すつるをいふなり」 としるしている。そして 自身の回心について、『教行信証』に、「しかるに愚禿釈の 鸞、建仁辛酉が暦、雑行を棄てて本願に帰す」と、建仁元 年 (一二〇一) 二十九歳のときのことであったと述べてい る。

 この自力の心をすてて本願他力に帰すということは、ただ一回かぎりのことであって、悪事をはたらくたびに、回 心しなければ浄土に往生できないというのではない。そのように考えるのは、さまざまの悪をたち善を修めて、さとりを開くことを願う自力聖道門の人であると批判する。