(仏教研修会 第364回) 2004/10/24 浄土真宗の歴史に学ぶ
『歎異抄』が語る親鸞聖人27
1.『歎異抄』の第十七条
第十七条 現代語訳
浄土の辺地に生まれた人は、結局は地獄におちるということについて。
このことは、どのような証拠となる書物があるのでしょうか。これは学者らしくふるま う人の中からいいだされたということですが、まことにあきれた情けないことです。そのような人は、経典や注釈書などにしるされた内容を、どのように理解しておられるのでし ょうか。
信心のない念仏者は、阿弥陀さまの本願を疑うことにより、辺地の浄土に生まれ、本願 を疑った罪をつぐなった後、真実の浄土においてさとりを開くことができると聞いております。
本願を心から信ずる念仏者が少ないので、辺地の浄土にはたくさんの人がいるというこ とです。それを、辺地に生まれたものは結局は地獄におちるなどということは、阿弥陀さ まの救いを説かれたお釈迦さまが嘘をいっておられるということになります。
第十七条 原文
一 辺地往生をとぐるひと、つゐには地獄におつべしといふ こと。この条、なにの証文にみへさふらうぞや。学生だつる ひとのなかに、いひいださるることにてさふらうなるこそ、 あさましくさふらへ。経論・正教をば、いかやうにみなされ てさふらうらん。
信心かけたる行者は、本願をうたがふによりて、辺地に生 じて、うたがひのつみをつぐのひてのち、報土のさとりをひ らくとこそ、うけたまはりさふらへ。
信心の行者すくなきゆへに、化土におほくすすめいれられ さふらうを、つゐにむなしくなるべしとさふらうなるこそ、 如来に虚妄をまふしつけまひらせられさふらうなれ。
第十七条 要旨
この条には、「辺地堕獄」の異義を批判する。辺地堕獄とは、浄土の辺地に生まれたものは、最後は地獄におちるということである。この異義は、第十一条の誓名別信の異義に属する。
阿弥陀仏の誓願の不思議を疑い、自力の行をはげみつつ念仏する人は、浄土の辺地に生まれることになる。しかし、 そこで誓願不思議に気づかされる身となって、ついには真実の浄土に生まれさせられるのであって、辺地に生まれたものは、最後には地獄におちるなどということは、どこにも説かれておらず、それは正しい仏法を誤解する異義であることを強調する。