(仏教研修会 第372回) 2005/6/19 浄土真宗の歴史に学ぶ
正機の機とは、根機(根本となる資質)のこと。正機とは、まさしく教 えの対象となる基本的な資質を持つ者という意味。
親鸞聖人は凡夫について、つぎのようにいっている。 「凡夫というは、無明煩悩、われらが身にみちみちて、欲も多く、怒り、 腹立ち、そねみ、ねたむ心、多く、ひまなくして、臨終の一念にいたるまで、 止まらず、消えず、絶えず(凡夫とは、無明といって、ものの道理がわから ない人のことである。その性格は、欲ばりで、怒りっぽくて腹を立て、他人 をそねみ(うらやみ)、ねたむという、さまざまの欲望・煩悩をもっている。 そして、これらの煩悩を死ぬ瞬間まで断ち切ることができない)」(『一念多 念証文』)
こうした凡夫の中でも特に極悪の人を優先して救うのが阿弥陀仏である。top
世間の人は普通には「悪人でさえ浄土に行けるのだから、善人が行けるの はあたりまえである」という。この考え方は、一応もっとものようだが、阿 弥陀仏の救いの趣旨に反する。
その理由は、自分の努力で善い行いをつみ重ねて浄土に生まれようとする 人は、阿弥陀仏の力にすがる心がないので、救われない。しかし、その人が 自力の行の限界を知り、阿弥陀仏をたのめば救われる。
欲望をすてることのできないわれらは、いかに修行しても結局は不十分で、 迷いの世界を離れられない。そのような人をあわれみ助けてくださるのが阿 弥陀仏である。このように阿弥陀仏の本意は悪人を救い仏にするためである から、ひたすら阿弥陀仏の力にすがる悪人こそが、まず浄土に生まれる資格 を持っていることになる。
浄土に生まれて仏になったものは、そこで安楽な生活をすることなく、 この世に還ってきて、迷う人びとを救わなければならない。
親鸞聖人は『教行信証』第1巻の初めに、浄土真宗とはどのような教えであ るかということについて、つぎのように記している。
「つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向(阿弥陀仏がその徳を人 びとに施して救うこと)あり。一つには往相、二つには還相なり。往相の 回向について真実の教行信証あり」阿弥陀仏に救われて浄土に生まれる ことを往相回向という。浄土に生まれ仏になると、そこにとどまることな く、ふたたびこの世に還ってきて、迷う人びとを救う。これを還相回向と いう。その往相、つまりいかにして浄土に生まれることができるかという ことを解き明かしたのが、『教行信証』である。
親鸞聖人は「往還の回向は他力に由る」(『正信偈』)と、念仏者を臨終に浄土 に生まれさせてくださるのも、また浄土からこの世に還ってきて人びと に念仏を説きすすめることも、すべてみな阿弥陀仏の力によるものであ るという。この『正信偈』の「往還の回向‥・」以下の5句はつぎのように述 べている。「往くも還るも他力ぞと、ただ信心をすすめけり、まどえる身 にも信あらば、生死(まよい)のままに涅槃(すくい)あり。ひかりの国 (阿弥陀仏の浄土)にいたりては、あまたの人を救うべし」
すなわち、迷うものは、自分の力の限界を知り、阿弥陀仏の迷うもの を必ず救うという願いを信じたとき、浄土に生まれる資格があたえられ る。そして浄土に生まれ仏になったならば、再びこの世に還ってきて、 縁のあった人びとに、阿弥陀仏の生きとし生けるものすべてを救いとる という願いを伝える役目を果たさなければならない、ということである。
以下に右ページのテキストのみを記述しました
「善人なおもって…」というこの言葉は、親鸞が法然の口から直接聞 いた。そして親鸞は唯円にこれを語り伝えた。それを唯円は『歎異 抄』にしるした。
法然→ 善人なおもって往生す、いわんや悪人をや~
親鸞→ 法然上人は阿弥陀さまのお救いのお目あては悪人だといわれた。
唯円→ 親鸞さまの教えを記録しておかなければ。
親にとってできのよくない子は心配 の種。阿弥陀仏にとっても悪い人間 のほうが気にかかる。『高僧和讃』(源空讃)
「極悪深重の衆生は、他の方便さらになし、ひとへに弥陀 を称してぞ、浄土にうまると のべたまふ」。法然(源空)はつ ぎのようにいっている。「極悪 の罪深い者は、救われる方法 は全くない。しかし、ただ一つだけ救われる手だてがある。 ひとえに南無阿弥陀仏と念仏 をとなえると、浄土に生まれ ることができる」
回向とは自分の修めた善行をさとりに向かってめぐらす行為である。 中国の曇鸞は『浄土論註』の中で、回向には往相と還相の2種があ るといった。親鸞は往相も還相も阿弥陀仏の回向であるとした。
往相回向
私のようなものを浄土にお招きくださってありがとうございます
あなたがくるのを待っていましたよ。
還相回向
仏さまを信じてお念仏すれば、お浄土に行けるのか。
私はお浄土に生まれ仏にならせていただきました。
親鸞の著わした『教 行信証』の第2巻 「行巻」にしるす偈文 (漢文のうた)。浄土 真宗の要旨を端的に 述べるとともに、こ の教えがインド・中 国・日本の7人の僧 によって伝えられた ことをしるしている。
本願寺の第8代蓮如は、この『正信偈』をわか りやすく解き明かした『正信偈大意』を書い た。この本のはじめに
「そもそもこの『正信偈』 というは、句のかず120句、行のかず60なり。 これは三朝高祖(インド・中国・日本の高僧) の解釈(かいしゃく)によりて、ほぼ一宗大綱 の要義(浄土真宗の教えの肝心なところ)を述 べましけり」
としるしている。そして蓮如は真 宗門徒が毎日の仏前の勤行(おまいり)に『正 信偈』と『和讃』をともにとなえるようすすめ て、『正信偈和讃』を印刷して配布した。これ以来、真宗門徒の朝夕の仏前のおまいりには 『正信偈和讃』を読むようになった。