(仏教研修会 第373回) 2005/7/16 浄土真宗の歴史に学ぶ

親鸞聖人が生まれた時代-末法濁世-変わる社会に変わらない世界の存在を示す
 おごる平氏が源氏によって滅ぼされる時代。仏法の歴史観では、人はいかに修行してさとりを得ようとしてもむだな、末法濁世の時代。

末法の救い主の浄土教
 親鸞聖人が誕生したのは承安3年(1173)、その122年前、日本は末法の時 代に入ったと考えられていた。釈尊が入滅して1000年間は正法といっ て、仏教の教えとそれを実践する行と、その結果である証(さとり)の 三つが正しく保たれるといい、きっちり修行すればさとりが得られる時 代。つぎの1000年は像法で、教と行は保たれるが、証が得られない時代。 そして末法の世になると、教だけが残り、証は得られず世の中は混乱するという。実際に日本が末法に入ると、戦乱・災害が続発し、人びとは濁世の思いを強く実感した。現世が苦しいから楽を求める、濁っているから清らかさを願う。迷っているから証を求めた。しかし人びとはそれを解決する手だてを見出すことができなかった。そこで希望を後の世に託し、極楽浄土に生まれることを願った。

 この末法の救世主となった浄土教を説きすすめたのは源信和尚である。彼は仏の名をとなえ、心に阿弥陀仏の姿を念ずることによって、浄土に生まれることができると説いた。

 文治元年(1185)、親鸞聖人13歳のとき平氏が滅亡した。

 「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、 盛者必衰のことわりをあらわす。おごれる人も久しからず。ただ春の夜の夢のごとし」

 この有名な文章にはじまる『平家物語』は、おごる平氏の没落をもの哀しく語る。その根底に流れるのは無常感である。無常とは、あらゆるものは変化する、ということである。親鸞聖人は変わる世に、変わらない世界を示した。

源信和尚 日本浄土教の僧(浄土真宗七高僧の第六祖)
  源信和尚(942~1017)は大和(奈良県)当麻に生まれ、比叡山横川の恵心院に住んで いたので、恵心僧都ともいう。『往生要集』を著わし、浄土往生をすすめる。

浄土教の隆盛に貢献
 日本に浄土教が伝わったのは7世紀の中ごろで、同じころに阿弥陀仏像も伝来した。やがて日本で阿弥陀仏像が造られるが、当初は倚子に腰をかけた倚像か、または坐像が多い。

 平安時代に密教が盛んになると、阿弥陀仏は大日如来の一族として、禅定思惟(静かに考える)の印相(さとりを示す形)の座像が造られた。

 平安中期に浄土教が盛んになり、阿弥陀仏は末法の救い主として大日如来から離れて独立する。それは宇治平等院・日野法界寺の阿弥陀像などで、独立した本尊として御堂に安置された。この浄土教の隆盛に貢献 したのが源信和尚である。

源信和尚、阿弥陀仏の来迎を説く
 末法濁世の現実世界に夢を失った人びとは、希望をひたすら後の世に託した。そして心に阿弥陀仏を念じ、口に阿弥陀仏の名をとなえつつ、 極楽浄土に生まれることを願った。

 源信和尚の影響をうけた権力者藤原道長(966~1027)は阿弥陀仏を安置した堂を建てた。堂の扉には雲に乗った阿弥陀仏が聖衆をひきつれて念 仏者を迎えに来る絵が描かれていた。

 道長は、臨終にはこの阿弥陀堂に横たわり、仏の手と自分の手を五色 の糸で結び、目には仏の姿よりほかのものは見ず、耳には仏法よりほかの声は聞かず、心にもっぱら極楽浄土を念じつつ、その華やかな62年の 生涯を閉じたのであった。

 道長の子頼通(992~1074)は父から譲り受けた宇治の別荘を寺とし、 平等院と称した。ここに阿弥陀仏像を安置した鳳風堂を建てた。
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鎌倉幕府の成立

おごる平家、滅亡する
 長門(山口県)壇の浦の戦いで平家は敗れ、8 歳の安徳天皇は平家一門と共に入水して死去 した。

平清盛から源頼朝へ
 平清盛から源頼朝へ

壇ノ浦の戦い
 発端→  経過→  戦後
 一の谷に続き屋島を、追われて長門へ逃れ た平氏一族。平宗盛、 平知盛ら平氏軍は彦 島に兵船を集結させ、 西上する源氏方の水軍を迎え撃つべく布 陣した。
   玄界灘から周防灘に流れる潮流を利用する平氏軍の作戦によ り、はじめは平氏軍 が有利。しかし、潮流が変わり、源氏軍が優勢となる。やがて、平氏軍が崩れ二 位ノ尼、安徳天皇らは、海中へ身を投げる。壇の浦で敗れた平氏
はそのほとんどを討ち取られ、平家はわずか30年の栄華の期間を経て滅亡した。 鎌倉の源頼朝は、平家滅亡とともに全国の反対勢力を討伐し、 建久3年に征夷大将軍となり鎌倉幕府を開くことになる。

出陣するの平重衡。一の谷の戦いで生けどりと
なり、殺される。
出陣するの平重衡。一の谷の戦いで生けどりとなり、殺される。

阿弥陀仏が迎えにくる

阿弥陀仏像の推移
阿弥陀仏像の推移
阿弥陀仏坐像→阿弥陀仏倚像→阿弥陀仏立像

源信和尚の二十五三昧会
源信和尚
源信和尚 源信和尚の墓
 比叡山横川の僧25人が設立した念仏の集会で、源信和尚を指導者にむかえ、毎月15日に催した。この集会には法皇をはじめ一般人も参加し、職業や社会階層にこだわらない、念仏によって結ばれた集まりで あった。源信和尚の墓