(仏教研修会 第375回) 2005/10/23 浄土真宗の歴史に学ぶ

法然上人の専修念仏に帰依  比叡でさとりを得られず山を下る
 聖徳太子が建てた京都の六角堂に100日こもり、本尊の救世観音に行くべき道の指示を求め、太子の示現を得て法然上人の門下に入る。

聖徳太子の示現
 親鸞は20年間の比叡の修行にさとりを得ることができず、建仁元年(1201)29歳のとき、山を下り六角堂に百日参籠を志し、今後の身の処 し方について教えを請うた。95日目の明け方に、聖徳太子が現われ、偈文をとなえて行くべき道を示された。この太子の指示によって法然のもとをたずねた。

 その太子示現の文の内容は明らかではないが、「聖徳太子廟窟偈」で あろう。それは浄土教によって救われることが示されていた。

 このころの親鸞の悩みは、天台宗の修行を続けるべきか、浄土教に入るべきかということにあったようで、この太子の示現によって、浄土教への転入を決断した。

法然上人のもとに百日聴聞
 親鸞が六角堂に参籠したとき、法然は69歳、承安5年(1175)に中国の善導の著わした『観無量寿経疏』に感銘し、専修念仏に帰依してから26年も経っていた。3年前の建久9年(1198)には慈円の兄、関白九条兼実の要請で主著の『選択本願念仏集』を書き、法然の説く念仏は貴族や武士および一般民衆にひろく浸透し、その教勢は最高潮に達した時期であった。その法然の名声を比叡の修行者たちもよく知っており、法然一門に加わる者もいたが、また強い敵意をいだく者もいた。親鸞の師慈円は法然教団に所属する人の破戒行為を強く批判していた。こうした事情もあって、親鸞は六角堂参籠において解決を仰いだのであった。

 親鸞は太子の示現を得て、法然のもとに100日の間、仏法を聴くために通い、ついに念仏によって救われる身となったのである。
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以下に右ページのテキスト部分を記載します
聖徳太子の指示で法然上人のところへ

聖徳太子示現の文の廟窟偈とは
 河内国磯長(大阪府南河内郡太子 町)の叡福寺に、聖徳太子の廟(墓)がある。その廟の前に太子 の徳をたたえる七言二十句の偈文(漢文のうた)がしるされていた。親鸞聖人がその中のハ句を抜書きした自筆の文が現存する。その内容は、 太子の母は阿弥陀仏、太子は観音 菩薩、妻は勢至菩薩の化身で、日本で浄土教をひろめるために生ま れてきた、としるしている。

六角堂参籠はいつか
 親鷲聖人の妻恵信尼様の手紙に、この六角堂参籠のことがしるされ、参籠ののち法 然上人のもとに降雨・日照・大風にかかわ らず、100日通ったとあるので、6 月の梅雨、7月の酷暑、8月の台風の季節であろう。そうであれば、六角堂に参籠したのは3・4・5の3か月ということになる。

選択本願念仏集
 はかりみれば、それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を聞きて選びて浄土門に入るべし。浄土門に入らんと欲はば、正雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行をなげすてて選びて正行に帰すべし。正行を修せんと欲はば、正助二業のなかに、なほ助業を傍らにして選びて正定をもつぱらにすべし。正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願 によるがゆゑなり。
 ここに貧道(源空)、昔この典(観経疏)を披閲して、ほぼ素意を識る。立ちどころに余行を舎めてここに念仏に帰す。それよりこのかた今日に至るまで、自行化他ただ念仏を縡とす。しかるあひだ希に津を問ふものには、 示すに西方の通津をもつてし、たまたま行を尋ぬるものには、誨ふるに念仏の別行をもつてす。これを信ずるものは多く、信ぜざるものは尠なし。 まさに知るべし。浄土の教、時機を叩きて行運に当れり。念仏の行、水月を感じて昇降を得たり。しかるにいま図らざるに仰せを蒙る。辞謝するに 地なし。よりていまなまじひに念仏の要文を集めて、あまつさへ念仏の要義を述ぶ。ただ命旨を顧みて不敏を顧みず。これすなはち無慚無愧のはなはだしきなり。庶幾はくは一たび高覧を経て後に、壁の底に埋みて、窓の 前に遺すことなかれ。おそらくほ破法の人をして、悪道に堕せしめざらんがためなり。

選択本願念仏集

 元久元年十一月二十八日書写しをはりぬ。
 願はくはこの功徳をもつて、一仏土に往生せんのみ。

         元久元年十二月二十七日       源空(花押)