(仏教研修会 第376回) 2005/11/13 浄土真宗の歴史に学ぶ
親鸞聖人の結婚
六角堂の観音の夢告
親鸞聖人31歳の建仁3年(1203)4月5日の夜、六角堂の救世観音菩薩の夢告 (夢の中のおつげ)があった。それは「仏道を修行する者が、何かの縁によって、女性と結ばれることがあるならば、わたくし(救世観音)がその女性になりかわり、一生の間、仲よくし、臨終には極楽浄土へ一緒に参 りましょう」という内容であった。
そのころの親鸞聖人の悩みの中には、女 性の問題も含まれていたことであろう。専修念仏を説く法然上人門下に入っ て、法然上人の「聖であって念仏ができないならば、妻帯して念仏せよ。妻帯したために念仏ができないならば、聖になって申せ」という意向と、 救世観音の夢告を得て、親鸞聖人は結婚を決意した。
親鸞聖人の妻
親鸞聖人は救世観音の夢告を得て間もなく結婚したようである。『日野一流 系図』に妻は九条兼実の娘とある。『親鸞聖人御因縁』には兼実の娘玉日とあり、法然上人は結婚して間もない玉日をみて「子細なき(申し分のない) 坊守なり」とほめたという。坊守とは坊(寺)を守る人ということで、寺院住職の妻をさす。以来浄土真宗では妻帯が宗風となり、妻は住職と共 に仏法の伝道と寺院の護持に当った。
なお、親鸞聖人の最初の妻は玉日であるという伝承は近代まで語りつがれた。しかし『日野一流系図』と『親鸞聖人御因縁』には史実に基づかない記述がある。九条兼実の日記などには玉日に該当する娘は存在しない。なお親鸞聖人と最初の妻との間に範意 (即生)という男子が生まれた。ついで越後介(新潟県副知事)三善為教の娘の恵信尼と結婚し、小黒女房・慈信房善鸞・信蓮房明信・益方大夫人道有房(道性)・高野禅尼・覚信尼の6人の子が生まれた。
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以下に右ページのテキスト部分を記載します
男女が平等に救われる教え
恵信尼様
恵信尼様の父三善為教は越後介で、これは中流貴族が任命される職であったので、 京都の九条兼実に仕える家司であったという説がある。いっぽう三善氏は越後 の国府付近に住んでいた豪 族ともいわれる。親鷲聖人と恵 借尼様の結婚の時期は、これ までは親鷲聖人35歳のとき、 越後に流罪後とみられてき た。しかし、当時の法令に 「流人は妻を伴って配所に行け」とあり、京都で結婚して一緒に越後におもむいたのではという見方もあ る。
恵信尼消息
恵信尼様は関東で20余年、京都で20年ほど親鸞聖人と同居し、建長5年 (1253)72歳のころ越後に行った。それは父から譲られた土地を管 理するためであつた。恵信尼様が弘長3年(1263)82歳のときから文永5年(1268)87歳のときまでの間に、京都にいる末娘覚信尼に宛てた手紙が8通ある。最初の4通は親鷲聖人死去の報せをきき、生前の親鸞聖人の思い出をしるした内容である。他の4通は恵信尼様の晩年のもようがしるされている。この「恵借尼消息」は鎌倉時代の女性の手になる貴重な文献として、国の重要文化財に指定されている。
「御伝鈔」第三段
建仁三年 葵亥四月五日の夜寅の時、上人(親鸞)夢想の告げましましき。 かの『記』にいはく、六角堂の救世菩薩、顔容端厳の聖僧の形を示現して、白 衲の袈裟を着服せしめ、広大の白蓮華に端坐して、善信(親鸞)に告命してのたまはく、「行者宿報設女犯 我成玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導 生極楽」といへり。救世菩薩、善信にのたまはく、「これはこれわが誓願なり。善信この誓願の旨趣を宣説して、一切群生にきかしむべし」と云々。そのとき善信夢のうちにありながら、御堂の正面にして東方をみれば、峨々たる岳山あり。その高山に数千万億の有情群集せりとみゆ。そのとき告命のごとく、 この文のこころを、かの山にあつまれる有情に対して説ききかしめをはるとおぼえて、夢さめをはりぬと云々。つらつらこの記録を披きてかの夢想を案ずる に、ひとへに真宗繁昌の奇瑞、念仏弘興の表示なり。しかあれば聖人(親鸞)、 後の時仰せられてのたまはく、「仏教むかし西天(印度)よりおこりて、経論い ま東土(日本)に伝はる。
これひとへに上宮太子(聖徳太子)の広徳、山よりもたかく海よりもふかし。わが朝欽明天皇の御宇に、これをわたされしによりて、すなはち浄土の正依経論等このときに来至す。儲君(聖徳太子)もし厚恩 を施したまはずは、凡愚いかでか弘誓にあふことを得ん。救世菩薩はすなはち 儲君の本地なれば、垂迹興法の願をあらはさんがために本地の尊容をしめすと ころなり。そもそもまた大師聖人源空、もし流刑に処せられたまはずは、わ れまた配所におもむかんや。もしわれ配所におもむかずんば、なにによりてか辺鄙の群類を化せん。
これなほ師教の恩致なり。大師聖人すなはち勢至の化身、太子また観音の垂迹なり。このゆゑにわれ二菩薩の引導に順じて、如来の本願をひろむるにあり。真宗これによりて興じ、念仏これによりてさかんなり。これしかしながら聖者の教誨によりて、さらに愚昧の今案をかまへず、かの二大士の重願、ただ一仏名を専念するにたれり。今の行者、錯りて脇士に事ふることなかれ、ただちに本仏(阿弥陀仏)を仰ぐべし」と云々。かるがゆゑに上人親鸞、傍らに皇太子(聖徳太子)を崇めたまふ。けだしこれ仏法弘通のおほいなる恩を謝せんがためなり。