(仏教研修会 第378回) 2006/1/22 浄土真宗の歴史に学ぶ

信心の論争 法然上人と親鸞聖人の信心は同じ
 法然上人の門下において、親鸞聖人と他の門弟との間で「信心じょう論」(信心についての論争)と「信行両座」(信心か念仏の行か)という二つの論争が行われた。

信心じょう論
 親鸞聖人が、「自分の信心も師の法然上人の信心も、すこしもかわること なく同じである」と発言した。これを聞いた正信・勢観・念仏などの有力門弟たちが、とんでもないことだと反対した。

 親鸞聖人は、「法然上人と智慧や学問が等しいというのはとんでもない間 違いであるが、浄土に生まれる信心は、阿弥陀仏からたまわったものであるから同じである」と答えた。

 これを聞いた法然上人は、「信心が異なるというのは自力の信心についてのことで、他力の信心は仏からたまわったものであるから、法然上人の信心も親鸞の信心も同じである」といったという。

信か行か
 ある時、親鸞聖人は法然上人の許可を得て、信不退と行不退の二つの座(エリ ア)を設け、門弟たちにあなたはどの座につくかと尋ねた。

 そのとき信不退の座についたのは、親鸞聖人と信空・聖覚・法力(熊谷直 実)だけで、他の門弟たちは態度を明らかにしなかった。やがて法然上人も 信不退の座についた。信不退・行不退とは、信心で浄土に生まれるか、念仏の行をはげんで浄土に行くかということである。親鸞聖人は、阿弥陀仏の本願(願い)のいわれをきき、それを信じたとき、浄土に生まれる資格を得るのであって、念仏の行をはげみ、念仏をとなえた功績をつみかさねて浄土行きを願うことを否定した。

 それは親鸞聖人が、自分は善いことをつみかさねる自力の行のできない無力な人間であるとの反省によって、阿弥陀仏の救いを信じて助かる道を選んだからであった。
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以下にテキストの右ページ部分を記載します
信心のない念仏はダメ

一念と多念の念仏
一念
一声の念仏でも浄土に生まれることができるとい う考え

多念
 念仏を多くとなえて浄土往生を願うこと

 法然上人は、一念往生を認める発言をしているが、 彼自身は一日に数万遍の念仏をとなえた。

親鸞聖人と法然上人の会話
 親鸞聖人…… 私と法然さまは同じ
 法然上人…… わしも親鸞も信心においては同じ
 他の人……… 親鸞はとんでもないやつだ

親鸞・信空・聖覚・ 法力・法然の選択は
 →○信不退…… 信心で浄土に生まれる
 →×行不退…… 念仏の行をはげんで浄土に行く
 親鸞聖人はは『高僧和讃』の中で、「本師源空(法然上人)世にいでて、弘願の一乗(すべての人を救う念仏の教え)ひろめつつ、日本一州ことごとく、浄土の機縁(浄土に生まれるチャンス)あらはれぬ」とたたえている。