(仏教研修会 第390回) 2007/4/22 浄土真宗の歴史に学ぶ

覚如、存覚を義絶 東国門弟、覚如の本願寺中心主義に反撥
 覚如上人は長男存覚を二度義絶した。存覚には多くの著書があり、広い視点から親鸞教学の理解を図り、東国門弟と協調の姿勢をとった。

覚如、存覚を義絶
 覚如上人は留守職に就任したが、東国門弟との関係は良好ではなかった。覚如上人は留守職就任4年目に職を存覚(1290~1373)に譲り隠退した。しかし8年後の元亨(げんこう)2年(1322)、覚如上人は存覚を義絶して留守職に復帰した。
 東国門弟は連署状を作り、覚如上人に存覚との和解を要請したが、覚如上人はこれを拒否した。18年後の暦応元年(1338)存覚は備後(広島県)で法華宗徒と法論して勝利した。これを機会に、門徒の要請で存覚の義絶を解いた。しかし、4年後に再び義絶し、8年後の覚如上人が死ぬ前年に和解した。
 義絶の理由は、存覚が浄土真宗の正統からはずれた異端の法を説いたからということであった。
 しかし実際には、存覚が各地の門弟に信望があったのに対し、覚如上人には不信をいだく門弟が少なくなくて、親と子の間柄とはいえ、感情的によくなかったためといわれる。

東国門弟の離反
 東国門弟のなかでは高田・横曽根・鹿島・伊達の各門徒が有力で、そのなかでも高田・鹿島と和田(高田の系列)の三門徒が大谷廟堂の創立・復興に力を注いだ。しかし、覚如の本願寺を真宗門徒の本山にしようとする姿勢には反対で、三河(愛知県)の和田門徒の念仏者たちは京都の本願寺には参ら ず、下野(栃木県)の高田専修寺に参詣した。
 和田門徒は高田門徒の系統をひく信寂・寂静が中心となっていた。この和田門徒に属する如道は越前(福井県)へ行き、大町門徒を形成して北陸に念仏をひろめた。

以下にテキストの右ページ部分を記載します
もっぱら和讃をとなえる
存覚復活の道を絶つ
 覚如は義絶した存覚が東国門弟の支持を得て留守職に復活するのをおそれ、建武元年(1334)青蓮院門主の慈道親王に願い、留守職については門弟が介入できないこと、また存覚は義絶の身であるから留守職になる資格はないとの安堵状(地位の安全を認める書状)を得た。これを知った門弟は、覚如と留守職の任命権や影堂敷地の支配権をめぐって何回も交渉をおこなったが、解決しなかった。
讃門徒
 覚如は留守職に就任した翌年の応長元年(1311)に存覚と共に越前大町の如道を訪ねた。このとき存覚は覚如に命じられて如道に『教行信証』の講義をした。如道を中心とする門徒は、親鸞聖人の作った『和讃』をとなえたので、讃門徒と呼ばれた。越前の天台宗長泉寺の孤山隠士は『愚闇記』を書き、讃門徒は浄土真宗がよりどころとする「阿弥陀経」を読まず、法然門下で盛んに用いられた善導の「六時礼賛」もとなえず、ただ男女が「和讃」をとなえながら仏前で歩くばかりである、などと批判した。これにたいして如道は「愚闇記返札」を書き反論した。

覚如宗主の存覚義絶

存覚義絶の因由
 宗主が、学徳兼備にしてよき補佐であつた存覚を何故に義絶したのか。それ については『存覚一期記』 元亨二年の条に、

此両年口舌事相続、遂預御堪気之間、六月廿五日令退出、寄宿牛王子辻子

 (去年から今年にかけて、宗主と存覚との間に口舌の事が相続き、遂に存 覚は宗主のご勘気を受けた。よって六月二十五日大谷を退出し、牛王子辻子に寄宿した)

とみえるばかりで委細を伝えていない。

 そこで義絶の因由について、古来色々の説がある。法義上の意見の相違とか、 仏光寺了源との関係によるとか、留守職の問題であるとか、両者合意による擬制的なものであるとか、指摘されるところが少なくない。存覚の義絶はこの後十六年におよび、漸く許されたが、間もなく再び義絶され、和解が成ったのは宗主遷化の前年である。従ってこの間題は単純なものでなく、色々の理由が輻輳 していたであろう。
留守職の問題
 しかしそれ等の中最も重大なものは留守職の問題であつたようである。けだし宗主と東国門徒との間には充分意志の疎通しない点があり、留守職就任以後 も門徒との関係は円満ではなかつたようである。前記の通り宗主が正和四年春以後大谷を退出して窪寺近在に住したことによっても、その一班が窺知できる であろう。そうした事情であるから、地方門徒の間には存覚を留守職に擁立し ようとする機運があつた。こうした雰囲気は、何時しか覚存父子の間を疎隔せ しめるにいたり、ついに義絶という事態を引き起こしたものと思われる。この 間の消息は、前掲妙香院の下知状に示唆するものがあろう。

すなわちこの下知状は、大谷の敷地は門弟等が進止すべきものであるにしても、留守職は財主覚 信尼の子孫が相承すべきで、門弟等が干渉すべきものではない。しかるに彼等の中には、宗主の留守職を妨害するものがあり、しかも義絶中の存覚に贔屓し て、留守職に擁立しようとしているのは、沙汰の限りであり、断じて許さるべきではない、というのである。かくて宗主は留守職について門弟側の発言権を 封じたのであるが、これはとりもなおさず義絶の原因が門徒間の存覚擁立運動 にあつたことを推察せしめるものといわねばならない。

存覚の立場と覚如宗主の態度
 『存覚一期記』その他を通じて見ると、存覚には留守職競望の意志はなかったと思われる。しかし門徒の間に存覚擁立の機運や策動があったためであろう、 宗主は存覚にその意士心があるものと考えていたようであり、ついに義絶となったかと想像される。「本願寺留守職手実公験目録」(本願寺文書)は宗主が晩年編したものであるが、それに収めた五通はこの問題に関する文書で、宗主の存覚に対する心情や留守職問題についての態度を察せしめるものがある。