安楽寺仏教研修会第300回資料
本願寺旧址 夕陽山本福寺 略史
大津市本堅田一丁目22ー30
本福寺 山門
本福寺山門の写真
本福寺の山門
 正和年中、善道によって開基、馬場の道場といった。第三世法住法師は蓮如上人の片腕といわれ、比叡山衆徒の圧迫からよく上人を守った。

 法住は長禄四年、邪教を広めるとして、上人を亡きものにせんとする比叡山衆徒に、単身登山し、根本中堂の中央に十字名号を掲げ浄土真宗こそ真実の宗教であると経論を引いて弁じ、断じて邪教でなく正法である旨を説いた。

衆徒は屈伏して、本尊、帰命尽十方無碍光如来の義を承諾したので、法住は裕然と退出した。ところが数十名がそのあとを追い、命と名号を奪わんとしたが、出迎えた上仰木の同行らに守られて無事帰ることが出来た。

このことを知られた上人は、しっかりと法住の手を握り、涙を咽んで仏祖のお護りを喜ばれた。この本尊は他に類のない立派な裏書きをされて道場の本尊として賜った。

 これで一応山門の衆徒は静かになったようであるが、本願寺の隆昌が腹立たしい彼らは寛正6年正月9日、大挙して本山に乱入した。

このことあるを予期して、すでに堅田門徒が守護していたが及ばず、急報により法住の弟法西が門徒多数を卒いて馳せ参じた。

 上人は無事なるを得たが、これではいけないと法住は人を介し、彼らが金を欲しがっていることを知り、三千貫文を山門に納入することにしてこの件は落着したが、思うにこのことは蓮如上人最大の法難であった。

 応仁元年応仁の大乱起り、上人は祖像を奉じて堅田へ移住され、ここで本願寺の寺務をとられることになった。当寺を本願寺旧址という所以である。尚、夕陽山の山号、、本福寺の寺号も共に上人より賜わったものである。

 応仁2年、比叡山衆徒は大軍を以て堅田を攻撃した。世に堅田大責という。

五世明宗、六世明誓、七世明順は精しい記録を書き残した。世に本福寺記録といい、文化財に指定されている。昭和58年5月11日、皇太子徳仁親王殿下はこの記録をご覧のため当寺を御参拝になった。
再建された本福寺本堂
再建された本福寺本堂の写真
再建された本福寺本堂
 十一世明式は俳号を千那といい、芭蕉の高弟であった。芭蕉は前後三回当寺を訪ね”病雁の夜寒 に落ちて旅寝かな”の句を残している。境内には蓮師ご滞在中に抜けた歯を納めたご廟所と共にこ の真筆句碑が残っている。千那に続き12世角上をはじめ代々俳諧に遊んだ。

 千那の建てた本堂は昭和29年12月8日、原因不明の火災にあい焼失した。現在の本堂は平成 7年秋再建されたもので、蓮如殿は三井本家の寄進になるものである。
注:
 松尾芭蕉:(1644〜1694)
 墓所 義仲寺(ぎちゅうじ) 大津市馬場1ー5ー12
木曽義仲の墓と隣り合わせで並んでいる ""木曽殿と背中合せの寒さかな""
JR膳所駅下車徒歩10分 京阪電車石山坂本線京阪膳所駅下車

 正和:しょうわ
 花園天皇朝の年号、1312年3月20日〜1317年2月3日

 長禄:ちょうろく
 後花園天皇朝の年号、1457年9月28日〜1460年12月21日

 寛正:かんしょう
 後花園・後土御門天皇朝の年号、1460年12月21日〜1466年2月28日

 応仁:おうにん
 後土御門天皇朝の年号、1467年3月5日〜1469年4月28日