(世界遺産フォーラム 於ける本願寺 1997/6/16)
講演要旨 能と狂言の歴史

1、中国からの渡来
  奈良時代に中国から伝えられた散楽(さんがく)で、唐の都で行われていた掛け合い漫才、 手品、曲芸など大道芸能が日本へ入ってきました。それまで日本にあった公の芸能 としての雅楽と違って町の人々が楽しむものとしてお寺や神社のなどの門前などで 演じられていました。


2、日本での定着
  その中から猿楽(さるがく)が筋書きの整った芝居として、 お寺やお宮さんなどの宗教行事として取り入れられるようになりました。 室町時代の初期には各地に猿楽座ができ能と狂言をあわせて演じられていたようです。


3、観阿弥・世阿弥父子
  この父子がひきいていた奈良大和の一座は大変な人気で評判も良く時の 将軍足利義満公にも知られるところとなりました。

そして一座は幕府に 抱えられ猿楽は武士がたしなみとして鑑賞する芸能となり以後武家の保護 を受けることになりました。


4、能と狂言への分化
  猿楽は次第に歌や舞を中心の能、笑いの要素が極められた台詞(せりふ) が中心の能狂言或いは狂言に分かれることとなりました。徳川時代になりますと 幕府の式楽になったため殆どの能楽師、狂言師は江戸へ移ることとなりました。


5、茂山家
  江戸へ移らず京都に残ったのは能の金剛家と片山家、それに狂言の茂山家です。 茂山家は維新まで本願寺を始めいろいろな寺社での奉仕、御所への出入りをして おりました。しかし生活は苦しく禁裏御用の手鏡を作る鏡師としての商いもしておりました。


6、後見の役目
  
  息子が跡を継ぐときには江戸の家元の所で修行し京都へ帰り、何年かすると お礼奉公のため再度江戸へ出向くことになります。曽祖父千五郎が跡を継ぐとき 江戸城で大きな能の催しがあり、後見役の千五郎はシテの衣装を付け後見座に 座っていました。

  その時シテが倒れましたが千五郎は直ぐに舞台へ出て見事 代役を務めました。これを観ておられた掃部頭井伊大老の目に留まりそれ以後 彦根藩に召し抱えられることになりました。この千五郎が隠居して初代の千作 を名乗ることになります。


7、本願寺との関係
  子供の時から毎年狂言を奉納させて頂いています。今では親鸞聖人のお誕生日 である降誕会(ごうたんえ)にここで狂言を上演させて頂いています。この能舞台 は狂言のやりやすい非常にいい舞台であります。

こうした文化遺産を使わせて頂くご縁を大事にし、今後ともますます芸の道に精進 して参りますとともに多くの方々にこの文化財の価値をご理解いただければと願う次第です。


講師の紹介
大蔵流狂言師 茂山千作氏(しげやま せんさく)

大正8年京都市生まれ。5歳で初舞台に立ち、昭和41年に12世千五郎襲名、 平成6年に4世千作襲名。
紫綬褒章・勲四等旭日小授章を授章。京都市文化功労者。 日本芸術院会員。重要無形文化財保持者(人間国宝)。文化功労者。

茂山狂言会事務局

クラブ SOJA
http://www.soja.gr.jp/
Tel 075-221-8371 Fax 075-221-1309
〒602−0849 京都市上京区中筋通石薬師上ル大猪熊町346


注:
式楽
儀式に用いる楽。主として江戸幕府における能楽を指す

奈良時代

710年から794年

唐とその都

618年から907年 長安

室町幕府と足利義満

1338年から1573年 第3代将軍(1358から1408年)

徳川時代

1600年から1868年

参考

京都新聞 平成9(1997)年7月15日
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平成12(2000)年1月 安楽寺