安楽寺仏教研修会第279回第299回資料
誓願寺
浄土宗西山深草派総本山
誓願寺写真

新京極地図
誓願寺  京都・新京極

京都市中京区新京極桜ノ町453
浄土真宗西山深草派総本山
〒604−8035
TEL075−221−0958
FAX075−221−2019

本堂・表門・・・新京極通六角
庫裏・寺務所・・裏寺町六角角
誓願寺史  発行所 総本山誓願寺
平成6年5月31日第三版から抜粋
  
誓願寺史   発行所 総本山誓願寺・・ 平成6年5月31日第三版から抜粋
    
西暦 和暦 出 来 事     誓願寺年表    <top>
 660   天智天皇(38代)飛鳥時代の創立、 丈六の本尊様は当時の仏工彫刻師である賢問子(けんもんし)、芥子国(けしこく) という父子の合作、都が大和から平安へ遷るに従って誓願寺もともに移る
 794 延暦13年
平安遷都
恒武天皇の時代 京都平安遷都とともに王城の東北に 七道伽藍の結構をそのまま再現して大ぜいの人々に結縁し念仏の大道場となった
   京都市上京区元誓願寺通り小川西入
1175 承安5年 宗祖法然上人(1133〜1212) 念仏の教えをお開きになる、時の住僧(21世)蔵俊上人も浄土の教えに深く帰依し 法然上人を中興の祖22世として迎え浄土宗念仏門の寺となる、念仏の法脈は 西山流祖証空上人、深草派祖円空上人と相ついで師資相承される
     
1585 天正13年 元誓願寺小川町から現在地へ移った のは秀吉が天下を平定し、久しい戦乱によって荒れた都の市街を整理した時
     
1932 昭和7年9月26日 夜半第10番目の災禍、大本堂焼失、 御本尊様さえもいたく損傷された、そこで何をおいても本尊修理をと念じつつ浄財を 募り仮殿に入仏開眼の法会が営まれた、その後本堂再建の議も成り設計図もかかげて 募財に着手したが日ならずして昭和12年7月から20年8月までの戦争・敗戦 により仏舎殿堂の建立は望んでも出来ない状態であった
1955 昭和30年 元祖法然上人750年遠忌を期して 「本堂再建」にふみきったが募財にかかった途端に伊勢湾台風が愛知県一帯をおそい、 誓願寺末刹信徒の大部分が甚だしい大被害、ついに緊急会議を開き「再建」も「遠忌」 も3ヶ年間ストップということになる
1964 昭和39年 本堂完成
1965 昭和40年4月 元祖法然上人の大遠忌をつとめる
  国宝 京都博物館 誓願寺縁起三幅の絵画大軸 
  
○清少納言(枕草子の筆者)
 誓願寺において菩提の心をおこし、髪を落として比丘尼となり本堂のそばに庵室をつくり常念仏 して歓喜の往生をされた。
  
和泉式部
 わが娘に先立たれた悲しみのうちに無常をさとり、播州の書写山まで法を求めて行ったが、 そこの上人に「誓願寺へ急ぎ行きて御本尊に帰依すべし」とさとされ、当寺へ来た。

それより48日間、参籠して念仏三昧に入り、霊夢によって女人往生の信仰を得、 ついに髪を剃り小御堂の一宇を御堂関白よりいただいて寺内に住み、朝夕にこの本尊様に詣でて 長年の間、念仏を喜び、めでたく往生された。

 この庵室は後日、誓願寺の移転につれて新京極へ移り、誠心院といい、和泉式部の墓も町並み の中に現存する。
  
ものがたり  謡曲誓願寺
(誓願寺が京都に移ってから、天正13年までの話、この間900年)

 時宗の祖師 遊行(一遍上人 )さんは西山上人の法孫にあたるが、神託の偈文によって一宗を 開き諸国遍歴をされた。その時、誓願寺においても幾日もの間、参籠され念仏を勧めて多くの人 に名号の符を与えられた。

 ある日、群衆の中から一人の女房が進み出て「本堂正面にかかる誓願寺の額の代わりにお上人 の六字名号をかかげて下さい、ご本尊さまのお告げであります」と頼みました。

そこで願い通りに六字の名号額がかけかえられその時、空には微妙の天楽が鳴りひびいたといい、 その女房は和泉式部の化身であったという物語は「謡曲誓願寺」 として残っている。仏の誓願と念仏の六字とは同じであるという意味であろう。

 その他母子再会の「迷子道しるべ」の故事、また大悪人が改心し、発心得度の後に、 毘沙門の天の像を刻み、民衆の貧苦を救ったという話、この毘沙門像は国宝として博物館に託している。 また、足利8代将軍義教公の本尊信仰についての逸話などもある。
  
寺町と新京極
 上京区元誓願寺通り小川町からこの地へ移ったのは天正13年秀吉の時代。都の周囲に7里3丁 にわたる土居を築き、町中の寺院を市外へ移した。その時多くの寺院が東の果て京極に移され、 その時から京極通りを寺町というようになった。

 誓願寺もその時、秀吉の側室京極竜子松の丸殿の篤信によって諸大名の御簾中にも勧進され 最も大きな堂塔が12年間かかって建立された。

 その結構は、まづ表門は六角通り寺町に面し、 裏門は三条通りに北面し、南は誠心院に接し境内6000余坪、塔頭寺院18ヶ寺、七道伽藍、 三重塔など京都絵図(安永年間刊)に出ている。

 しかし明治維新にこのあたりに娯楽場繁華街を作ることになり寺町寺院の境内を削り、 墓地を整理し塀を取り払い、小川を埋め三条から四条まで開いた。これが今日の新京極である。
  
説 明:
和泉式部の墓碑
 和泉式部 左は和泉式部の墓碑
  和泉式部日記は長保5年(1003年)頃の作
  墓は誓願寺から新京極通りを少し下がった所(誠心院の境内)にある
  2001年3月和泉式部の墓碑へ新京極通りから直接近付き参拝できることになった  格子も名刺屋の館も取り除かれ一間半ばかりの間口が確保された しかし衣料店は健在であるが一歩墓碑へ 近づくと通りの喧騒も忘れそうな静けさを感じる

  なお2001年1月以前の墓碑周辺の状況   名刺屋さんと衣料店が陳列するTシャツ等の商品との間を覗くと一間ばかり向こうに格子を透して見える
  しかし名刺屋さんはこの頃閉店状態で衣料品店の商品に覆われている

追加 和泉式部の墓碑周辺の状況
 2010/07/26に墓碑の前を通と向かって左側のTシャツ屋が無くなりジュースの自動販売機が二台並んでいた  

 清少納言
枕草子は長保2年(1000年)頃の作
 時宗
 一遍上人(1239〜1289)が門下の僧尼を唐の善導にならって時衆と称したのに始まる

 六字の名号
南無阿弥陀仏