安楽寺 浄土真宗本願寺派 千葉山安楽寺
親鸞聖人御一代 第二回 仏教研修会2010
千葉昭彦
目 次
本 願 寺
徳島真宗青年会
安楽寺Home
安楽寺仏教研修会
14 異端と聖人の教化
13 和讃の撰述
12 教行信証
11 親鸞聖人の生涯
10 親鸞聖人の伝道
09 聖人越後から関東へ
08 聖人越後の生活
07 結婚と非僧非俗
06 親鸞聖人流罪
05 法然上人の選択集
04 吉水修学
03 比叡山修行
02 親鸞聖人の出家
01
まえがき
親鸞聖人の誕生
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◎親鸞聖人御一代 第二回
(妙音 平成21(2009)年報恩講版 千葉山安楽寺機関誌 掲載)
(安楽寺報 平成22(2010)年脇町春版 千葉山安楽寺機関誌 掲載)
○親鸞聖人の出家
左は親鸞聖人得度の絵
治承五年
九歳の春
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出家の理由は何であったか定かではない。五人兄弟(尋有・兼有・有意・行兼)いずれもが延暦寺・三井寺で出家している。父の入道隠棲といい、一家ことごとく仏門に入るには、容易ならぬ重大問題に巻き込まれたようである。有範の父経尹の放蕩によって、将来の出世の道が閉ざされたとも、勤め先の皇太后が亡くなり、失脚をして入道となったとも考えられるが、理由としては弱い、他の原因としては、
治承四年
平氏討伐に敗れた以仁王・源頼政と深い関係にあったのではと、みられる。有範の弟宗業は、以仁王の学問の師であった。王が敗死したときに、遺体の確認に呼ばれている。又、聖人の母が、源氏の出身であったことも無視できない。
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聖人は、
治承五年
九歳の春、伯父範綱にともなわれ、青蓮院慈円(慈鎮和尚)のもとで得度して、範宴少納言公(出家した貴族の子息に付けた呼称)として出家した。動機については「興法の因うちにきざし、利生の縁ほかに催ししによりて」(親鸞伝絵)と、あるくらいで定かではない。得度にあって、有名な歌「明日ありと 思う心の あだ桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは」が詠まれたとあるが、これも定かでない。出家の後は、比叡山に登って修行に励むこととなる
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