安楽寺 浄土真宗本願寺派 千葉山安楽寺
親鸞聖人御一代 第三回 仏教研修会2010
千葉昭彦
◎親鸞聖人御一代 第三回
  (妙音 平成22(2010)年春版 千葉山安楽寺機関誌 掲載)
  (安楽寺報 平成22(2010)年夏版 千葉山安楽寺機関誌 掲載)

○比叡山修行
写真

左は六角堂 親鸞聖人はここで百日参籠を行う
 比叡山は、最澄によって開かれた。最澄は、国家権力と結んで、害悪を生んだ奈良仏教を否定し、遁世して山に入り、仏教的実践によって世の一隅を照らす事を理想とした。比叡山は、日本仏教の最高学府であり、根本道場であった。東塔・西塔・横川に僧院があり、鎌倉仏教の創始者である、法然栄西道元日蓮も皆比叡山で研修している。比叡山の僧は、学生堂衆との二つの身分に大きく別れていた。学生は、貴族の子弟で、天台座主へ栄達の道が開かれていたが、堂衆は、学生の従者などが法師になった者で、道心もなく「叡山の荒法師」と称され、僧兵として堕落する者が多かった。最澄の死後、比叡山は次第に社会的政治権力と結びつき、民俗宗教と妥協して堕落した。

 親鸞聖人は、出家すると、比叡山に登った。堂僧として修行に励んだ。堂僧とは、学生でも堂衆でもなく、お堂に奉仕する僧のようで、円仁が開き、源信が受け継いだ、横川の首楞厳院に勤め、常行三昧を修した。常行三昧とは、堂内の阿弥陀仏像の周囲を、口に阿弥陀仏の名を称え、心に阿弥陀仏を念じながら、七日乃至九〇日の間、不眠不休で、心を集中して歩き廻る行で「山の念仏」(不断念仏)と称した。他にも千日回峰行にも真摯に取り組んだようである。戒を守り、行に励み、二〇年間を過ごした。しかし、修行にいきずまり、身の処し方に苦悩した毎日が続き、ついに、建仁元年二九歳にして、聖徳太子が開いた、京都六角堂救世観音に、今後の歩むべき道の指示を求めた。