安楽寺 浄土真宗本願寺派 千葉山安楽寺
親鸞聖人御一代 第三回 仏教研修会2010
千葉昭彦
目 次
本 願 寺
徳島真宗青年会
安楽寺Home
安楽寺仏教研修会
14 異端と聖人の教化
13 和讃の撰述
12 教行信証
11 親鸞聖人の生涯
10 親鸞聖人の伝道
09 聖人越後から関東へ
08 聖人越後の生活
07 結婚と非僧非俗
06 親鸞聖人流罪
05 法然上人の選択集
04 吉水修学
03 比叡山修行
02 親鸞聖人の出家
01
まえがき
親鸞聖人の誕生
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◎親鸞聖人御一代 第三回
(妙音 平成22(2010)年春版 千葉山安楽寺機関誌 掲載)
(安楽寺報 平成22(2010)年夏版 千葉山安楽寺機関誌 掲載)
○比叡山修行
左は六角堂 親鸞聖人はここで百日参籠を行う
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比叡山
は、
最澄
によって開かれた。最澄は、国家権力と結んで、害悪を生んだ奈良仏教を否定し、遁世して山に入り、仏教的実践によって世の一隅を照らす事を理想とした。比叡山は、日本仏教の最高学府であり、根本道場であった。
東塔・西塔・横川
に僧院があり、鎌倉仏教の創始者である、
法然
・
栄西
・
道元
・
日蓮
も皆比叡山で研修している。比叡山の僧は、
学生
と
堂衆
との二つの身分に大きく別れていた。学生は、貴族の子弟で、天台座主へ栄達の道が開かれていたが、堂衆は、学生の従者などが法師になった者で、道心もなく「叡山の荒法師」と称され、僧兵として堕落する者が多かった。最澄の死後、比叡山は次第に社会的政治権力と結びつき、民俗宗教と妥協して堕落した。
親鸞聖人
は、出家すると、比叡山に登った。堂僧として修行に励んだ。堂僧とは、学生でも堂衆でもなく、お堂に奉仕する僧のようで、
円仁
が開き、
源信
が受け継いだ、横川の
首楞厳院
に勤め、
常行三昧
を修した。常行三昧とは、堂内の阿弥陀仏像の周囲を、口に阿弥陀仏の名を称え、心に阿弥陀仏を念じながら、七日乃至九〇日の間、不眠不休で、心を集中して歩き廻る行で「山の念仏」(不断念仏)と称した。他にも千日回峰行にも真摯に取り組んだようである。戒を守り、行に励み、二〇年間を過ごした。しかし、修行にいきずまり、身の処し方に苦悩した毎日が続き、ついに、
建仁元年
二九歳にして、聖徳太子が開いた、
京都六角堂
の
救世観音
に、今後の歩むべき道の指示を求めた。
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