安楽寺 浄土真宗本願寺派 千葉山安楽寺
親鸞聖人御一代 第六回 仏教研修会2010
千葉昭彦
◎親鸞聖人御一代 第六回
  (妙音 平成22(2010)年報恩講版 千葉山安楽寺機関誌 掲載)
  (安楽寺報 平成22(2010)年報恩講版 千葉山安楽寺機関誌 掲載)

○親鸞聖人流罪
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 法然の教団は、九条兼実のような貴族、熊谷直実・大胡実秀・北条政子など、武士階級も少なくなかったが、法然は、かねてより、阿弥陀仏の救いの対象は、戒行を修することの出来ない愚かな人たち、即ち凡夫(行心定まらず、軽毛の風に随って、東西するがごとし)であるといった。 いかなる悪人も念仏によって救われるというところから、盗賊・遊女までも含まれ、庶民階層の人々が多く集まり、比叡山や、興福寺(奈良)など旧仏教教団からねたみを受け非難されるようになった。 写真は親鸞聖人(善信) 越後へ流罪の情景です
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 比叡山は念仏停止を求め、元久元年(1204)決起集会を開いた。法然は、比叡山衆徒の非難を解くため七か条の制誡を記して、念仏教団の自戒を促し、一九〇名の門弟がこれに署名した。親鸞様はこの時、僧綽空と自署している。翌元久二年奈良興福寺が九箇条にわたる過失を列挙して、専修念仏禁止を朝廷に訴えた。朝廷は、法然門弟には、よこしまな物言いをする者もいて、専修に名を借りて、悪行をしても浄土往生は出来るとするものもいるが、これは、法然の本意ではない。旧来の仏法を排する行為は禁止すべきであるが、あえてこれに刑罰を与えるようなことはしない。と回答した。興福寺はこれに納得せず、法然門弟急進分子である、遵西・行空・幸西の処罰を要求。法然は、行空を破門し、興福寺の怒りを解こうとした。

 この時に、事件が起こった。後鳥羽上皇が熊野に行幸した留守中に、上皇の寵愛を受けていた、鈴虫・松虫らが、遵西・住蓮の主催する鹿ヶ谷の法会に参加して外泊をしたことが明るみに出た、激怒した上皇は、建永二年(1207)専修念仏禁止、遵西・住蓮など四名を死罪。法然・行空・幸西・親鸞ら八名を流罪にした。 写真は念仏停止の廳議の情景です 安楽寺蔵御絵伝