安楽寺 浄土真宗本願寺派 千葉山安楽寺
親鸞聖人御一代 第七回 仏教研修会2011
千葉昭彦
◎親鸞聖人御一代 第七回
  (妙音及び安楽寺報 平成23(2011)年春版 千葉山安楽寺機関誌 掲載)

○結婚 ○非僧非俗
写真
 写真は六角堂救世観世音菩薩夢告の図
六角堂は京都市中京区にある頂法寺の呼び名
西国三十三所第18番札所

○結婚
 聖人三十一歳の時、六角堂の救世観音菩薩から「仏道を求める者が、何かの宿縁によって女性と結ばれることがあるならば、わたくしがその女性に成り代わりましょう。そして一生の間、その行者によくつかえ、死にのぞんだとき極楽へ導いていきましょう」と夢告くを受けて聖人は結婚された。

 聖人には、七人の子女がいたが、恵信尼様の手紙と實悟(蓮如十男)が作った「日野一流系図」とから推測するに、第一子・第二子の誕生は流罪以前に遡ることになる。法然門下で唯一妻帯したのは親鸞聖人ただ一人。これが破戒僧として流罪になった大きな原因と思われる。日野一流系図には、第一子範意の母は、九条兼実の娘玉日とあり、法然上人は、玉日を見て、「子細なき坊守なり」とほめたたえたという。ただし、九条家の系図には、玉日の名は見あたらない。

 系図によると、範意の母と別れた後、第二子小黒女房など六子の母である、恵信尼さまと結婚したことになる。恵信尼様は、兵部太輔三好為教女とあるが、この頃越後介に三好為則という人がおり、同一人物と思われる。越後介は、越後守の次官で、中流貴族が任命されるが、為教(則)は、恵信尼様が生まれる四年前に越後介を解任されたという。すれば、恵信尼様は、京都生まれの京都育ちということになる。手紙の文章や筆跡、又、日記を付けておられていたことからなどして、当時の女性としては高い教養を身につけておられたことが知られ、京都で教育を受けた事を物語るものといえよう。

 最近の研究からして、古代の法律「獄令」第十一条に「流人として処罰を受けた者は、妻を同伴して配所に赴け」という規定があり、聖人も同伴されたとするならば、結婚は京都時代とする見方が有力になる。

○非僧非俗
 流罪の宣告を受けた親鸞聖人は、「僧にあらず俗にあらず(非僧非俗)この故に禿の字をもって姓とす」(教行信証あとがき)と述べている。僧としても落第であり、俗人としても一人前でないと、深い自省に立脚しての言葉であった。さらにのちに、禿の姓の上に愚の字をつけて、愚禿親鸞と称する。

最澄が比叡山に入山した願文に「愚中極愚、狂中極狂、塵禿有情、低下最澄」としるし、僧侶も俗人も授戒できる大乗円頓戒を設立した。法然は「浄土宗の人は愚者になりて往生す」といい、親鸞が愚禿を姓としたことは、自分のような破戒の愚かな者こそが、弥陀の救いの対象であることを示したものでした