安楽寺 浄土真宗本願寺派 千葉山安楽寺
親鸞聖人御一代 第七回 仏教研修会2011
千葉昭彦
目 次
本 願 寺
徳島真宗青年会
安楽寺Home
安楽寺仏教研修会
14 異端と聖人の教化
13 和讃の撰述
12 教行信証
11 親鸞聖人の生涯
10 親鸞聖人の伝道
09 聖人越後から関東へ
08 聖人越後の生活
07 結婚と非僧非俗
06 親鸞聖人流罪
05 法然上人の選択集
04 吉水修学
03 比叡山修行
02 親鸞聖人の出家
01
まえがき
親鸞聖人の誕生
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◎親鸞聖人御一代 第七回
(妙音及び安楽寺報 平成23(2011)年春版 千葉山安楽寺機関誌 掲載)
○結婚
○非僧非俗
写真は六角堂救世観世音菩薩夢告の図
六角堂は京都市中京区にある頂法寺の呼び名
西国三十三所第18番札所
○結婚
聖人三十一歳の時、六角堂の救世観音菩薩から「仏道を求める者が、何かの宿縁によって女性と結ばれることがあるならば、わたくしがその女性に成り代わりましょう。そして一生の間、その行者によくつかえ、死にのぞんだとき極楽へ導いていきましょう」と夢告くを受けて聖人は結婚された。
聖人には、七人の子女がいたが、恵信尼様の手紙と實悟(蓮如十男)が作った「日野一流系図」とから推測するに、第一子・第二子の誕生は流罪以前に遡ることになる。法然門下で唯一妻帯したのは親鸞聖人ただ一人。これが破戒僧として流罪になった大きな原因と思われる。日野一流系図には、第一子範意の母は、九条兼実の娘玉日とあり、法然上人は、玉日を見て、「子細なき坊守なり」とほめたたえたという。ただし、九条家の系図には、玉日の名は見あたらない。
系図によると、範意の母と別れた後、第二子小黒女房など六子の母である、恵信尼さまと結婚したことになる。恵信尼様は、兵部太輔三好為教女とあるが、この頃越後介に三好為則という人がおり、同一人物と思われる。越後介は、越後守の次官で、中流貴族が任命されるが、為教(則)は、恵信尼様が生まれる四年前に越後介を解任されたという。すれば、恵信尼様は、京都生まれの京都育ちということになる。手紙の文章や筆跡、又、日記を付けておられていたことからなどして、当時の女性としては高い教養を身につけておられたことが知られ、京都で教育を受けた事を物語るものといえよう。
最近の研究からして、古代の法律「獄令」第十一条に「流人として処罰を受けた者は、妻を同伴して配所に赴け」という規定があり、聖人も同伴されたとするならば、結婚は京都時代とする見方が有力になる。
○非僧非俗
流罪の宣告を受けた親鸞聖人は、「僧にあらず俗にあらず(非僧非俗)この故に禿の字をもって姓とす」(教行信証あとがき)と述べている。僧としても落第であり、俗人としても一人前でないと、深い自省に立脚しての言葉であった。さらにのちに、禿の姓の上に愚の字をつけて、愚禿親鸞と称する。
最澄が比叡山に入山した願文に「愚中極愚、狂中極狂、塵禿有情、低下最澄」としるし、僧侶も俗人も授戒できる大乗円頓戒を設立した。法然は「浄土宗の人は愚者になりて往生す」といい、親鸞が愚禿を姓としたことは、自分のような破戒の愚かな者こそが、弥陀の救いの対象であることを示したものでした
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