安楽寺 浄土真宗本願寺派 千葉山安楽寺
親鸞聖人御一代 第十一回 仏教研修会2012
千葉昭彦
◎親鸞聖人御一代 第十一回  親鸞聖人の生涯
  (妙 音   平成24(2012)年春版 千葉山安楽寺機関誌 掲載)
  (安楽寺報 平成24(2012)年春版 千葉山安楽寺機関誌 掲載)

○親鸞聖人の生涯J
写真
 写真は親鸞聖人の生涯 『善信上人絵』(本願寺蔵)

 聖人は、みずからを虚仮不実の清浄心なき愚かな人間、すなわち凡夫であるといっている。この「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫」という考えは、念仏門に入っていらい、その生涯を貫く姿勢であった。悟りへの行を修することのできぬ凡夫が、在家の姿そのままで救われる道を、自ら歩むとともに人々に示したのであった。

 その聖人にとって、ともに念仏するものは、みな仏弟子で同行・同朋であった。それゆえ、「親鸞は弟子一人ももたず候」といって自ら師となることを否定し、「弥陀の御もよおしにあずかって念仏申し候ふひとを、我が弟子と申すこと、きわめたる荒涼のことなり」といっている。これは、曇鸞の「同一に念仏して、別に道なきがゆゑに、遠く通ずるに、それ四海のうちみな兄弟とするなり」を受け継ぐものであった。

 覚如の口伝抄には、聖人の門弟の常陸国新堤の信楽が、教えに背いたとき、聖人の侍僧蓮位が、信楽に与えられた本尊や・聖教を、取り戻されてはいかがですかと、進言したときに、聖人は、「本尊や・聖教を返還させることはすべきでない、念仏の法は、この親鸞が授けたものでなく、仏よりたまわったものである。

 親鸞は、弟子一人もおらず、みな仏の弟子である。本尊や・聖教は人々を教化するために、仏のおぼしめしによって、私が仮にあたえたものであって、この親鸞のものではない。したがって、信楽が私にそむいたからといって、それを取り戻すべきではない。もしも信楽が仮に本尊・聖教を山野に捨てたとしても、その所の有情群類(いきとしいくるもの)が、その聖教に救われることになる。」といったと伝えられている。

 地球上の全生物のいのちの尊さと、彼らとの共存に留意していたことが知られている。自らの信をひろく人々に分かち合おうという、聖人の熱心な伝道によって、東国における念仏の輪は次第に大きくなっていった。その念仏の集団では、源空聖人の命日である二十五日に、毎月集会を開くなど定期的な行事も開かれるようになった。東国念仏者の集いは、農民庶民などいわゆる民衆でしめられていた。

 聖人在世中の念仏者の正確な数は把握できないが、「交名帳」によってうかがい知れる。これは、聖人示寂後、放浪して念仏を広める一団があり、社会秩序を乱すとして幕府から取り締まりを受けたとき、聖人の門流はそうした集団とは違うことを、幕府に申し立てるための添付名簿である。交名帳に見られる国別人数は、常陸二十・下総五・下野五・武蔵一・陸奥七・越後一・遠江一・京都八の計四十八人が直接聖人から教えを受けた者として記載されている。

 親鸞聖人は京に帰られるが、関東では、真仏・顕智の高田門徒、性信の横曽根門徒など、門徒が教団を形成してゆく。