安楽寺 浄土真宗本願寺派 千葉山安楽寺
親鸞聖人御一代 第十四回 仏教研修会2013
千葉昭彦
◎親鸞聖人御一代 第十四回  親鸞聖人の生涯 異端と親鸞聖人の教化
  (安楽寺報  平成25(2013)年春版 千葉山安楽寺機関誌 掲載)
  (妙音  平成25(2013)年春版 千葉山安楽寺機関誌 掲載)

○親鸞聖人の生涯 異端と親鸞聖人の教化
  造悪無礙と専修賢善の異端が関東に広まり、苦慮される
写真
 写真は親鸞聖人像 安楽寺境内

 造悪無礙とは、法然上人の念仏が広まるにつれ、間違った解釈をする者が出て、念仏弾圧の元凶ともなった。法然上人も、「専修念仏者は戒行を修さなくとも浄土往生にはさしつかえないからといって、飲酒・肉食をすすめたり、戒行を保つ者を雑行人と見下してはならない。又弥陀の本願を信ずる者は、罪を犯してもおそれることはないと説いてはならない。」と 、造悪無礙を戒めている。しかし、この考えをもつ念仏者はその後も後を絶たず、親鸞聖人の門弟たちにも、悪をも恐れぬふるまいをするものがおったようで、建長四年の手紙に「浄土真宗の真実の教えを理解しないで、悪いことをしても阿弥陀仏はたすけてくださるのだからといって、悪いことをしてもよいというのは謝った考えであると、戒めている」これは、常陸国の門弟に出された手紙であるが、この地方の造悪無礙をすすめていたのが、信見という僧であった。

 同時に東国では、専修賢善の異端が行われた。これは、もともと親鸞聖人の教えは念仏以外の戒行を否定し、もっぱら念仏を修することによって救われる道であった。しかし、ただ念仏だけに満足せずに、善い行いをして念仏のたすけにしょうと考えたり、念仏を多くとなえてその功徳によって浄土に生まれることを願うというものである。歎異抄十六条には「すべてよろずのことにつけて、往生にはかしこきおもいを具せずして、ただほれぼれと弥陀のご恩の深重なること、つねはおもいだしまゐらすべし、しかれば、念仏も申され候ふ 」といましめている。

親鸞聖人が関東を後にしてから、造悪無礙・専修賢善・正統念仏者の三グループが、うずまいて競うことになっていた。そこで、親鸞聖人は、息男慈信坊善鸞を異端説得に関東に派遣した。

 善鸞は、当初造悪無礙の人たちを対象に説得を続けたようで有るが、徐々に反対の立場の、専修賢善グループに荷担するようになったようで、権力者とも結託するようになって、正統念仏者までも弾圧するに至った。善鸞はこうして、関東での自分の地位を獲得しようとした。善鸞は、道徳が守れないのは、真実の信心が無い証拠である。弥陀の本願を信じてただ念仏するだけで無く、悪を廃し善を行わなくては真の念仏者とはいえない、とする、専修賢善を説いたようである。そして、善鸞は、この教えは、親鸞聖人から夜中にひそやかに伝授をうけたもので、これこそ聖人の本意であるといって自説を広めた。多くの念仏者が善鸞に共鳴し、東国の念仏集団は大動揺をきたした。正統念仏者は、善鸞の動きを黙視できず建長七年には対立は激化した。善鸞は、権力者と結託し、正当念仏者の弾圧を要請するに至った。

 親鸞聖人は、その実情を正確に把握していた訳で無く、やがてそれが息子善鸞の策動であることを知るに至り、愕然とした。聖人建長八年の手紙に「いまは親ということあるべからず、子とおもうことおもいきりたり。三宝・神明に申しきりをはりぬ。かなしきことなり。」と、断腸の思いで善鸞と親子の縁を切った。時に聖人八十四歳善鸞五十歳前後