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浄土真宗の歴史に学ぶ
(仏教研修会 第353回) 2003/10/13
千葉 乗隆
『歎異抄』が語る親鸞聖人17   

  1. 『歎異抄』の第十二条 その一  この条は今月(10月 第353回)及び次月(11月 第354回)の2回にわたり講義を行う


  • 第十二条 現代語訳


 念仏をとなえても経典やそ の註釈書を 勉強しないものは、浄土に生まれることができないという人がいます。 しかし、これはとりあげるに足りない誤った考えであるといえます。

 阿弥陀さまの本願他力について説き明かしたさまざま なお聖教(書物) には、本願を信じて念仏するものは、かならず救われて 仏になることを明らかにしています。したがって、浄土に生まれるためには、ただ阿弥陀さまを 信じて念仏をするだけでよく、そのほかにいかなる学問も必要ではありません。

 ほんとうに、このことがわからないで迷っている人は、どのようにしてでも学問して、 本願の真意を知るべきです。いくら経典や註釈書を学習しても、それら聖教の本意がわからない ようでは、なんともいたしかたなく、まことに気の毒なことです。

念仏の教えは、文字の一つも読めず、経典などの筋道が理解できない人がとなえやすいようにと、 「南無阿弥陀仏」の名号が選ばれたのでした。その名号をとなえて救われる浄土門 を易行といいます。 学問を重視するのは聖道門であ り、難行と いいます。学問をしても、それが名誉や利益を求めるためで あるとの誤った考えをもっている人は、来世に浄土に生まれることができるかどうかは疑わしいことです。 このことを明らかにされた親鸞聖人の証文も残っています。 このごろは、もっぱら念仏をする他力浄土門の人と、自力聖道門の人とが、教義について論争をして、 「わたしの信じる教えがすぐれている。あなたの信じている教えは劣っている」などと言い争っています。 そのために仏法を敵視したり、仏法 を謗る人 もでてきます。このような法論をするのは、自分の信じる教え の優位性を主張するためでしょうが、しかしそうした行為は、かえって自分の信ずる教えを語り滅ばすこと になるのではないでしょうか。

 もしかりに、他の宗派の人たちが一緒になって、「念仏はつまらぬ人のためのものであり、その教えは、 浅薄で低級である」といっても、決して言い争うことなく、「わたしたちのような、 つまらない凡夫、文字一つ も読めない無学のものでも、阿弥陀さまの本願を信じて念仏すれば助けてくださるということを お聞かせいただいて、そのように信じていますので、あなたがたのようなすぐれたお方にとっては つまらない教えでありましても、わたしどもにとっては、最上のすばらしい教えです。たとえ他にすぐれた 教えがあっても、わたしにはとても力がおよびませんので、それを実行することはできません。

わたしもあなたも、すべての人が迷いの世界をはなれることが仏さまのお心ですから、わたしが念仏する ことをさまたげないでください」と、相手の気にさわるような態度をとらないで話しかけると、だれも念仏の さまたげをする人はいないでしょう。もしそのとき、言い争いをすると、そこにはさまざまな煩悩がおこって、 収拾がつかなくなりますので、分別のある人は、そのような争論の場からは遠く離れるべきであるということ を諭された法然聖人 の書かれたご文もあります。

 今は亡き親鸞聖人は、「この念仏の教えを信ずる人もいれば、また謗る人もいる だろうと、お釈迦さまも いっておられます。わたしは、すでにこの念仏の教えを信じています。しかし、 またいっぽう念仏を語る人もいますので、お釈迦さまのいわれた言葉は本当であることがわかりました。 それゆえ、わたしが浄土に生まれさせていただけることは、ますます間違いないと思います。 もし、念仏を謗る人 がいなかったなら、信じる人がいるのに、なぜ謗る人がいないのだろうかと 不審に思うことでしょう。 しかし、このように申しあげたからといって、必ず人に謗られることを求めているのではありません。 お釈迦さまは、教えを広める場合には、それを信じる人と謗る人とがいることを承知しておられて、 もし信じる人が謗られたからといって、その教えに疑いをいだかないようにという配慮から、 そのようにおっしゃられたのだということです」と仰せになりました。

 ところがこのごろの念仏者の中には、学問をして理論的な能力を身につけて、他人が謗ることを やめさせるように、議論し問答することが大切だと思っておられる方がいるようですが、 それは誤った考えです。

 学問をすれば、いよいよ深く阿弥陀さまのお心にふれて、その本願の広大なお慈悲のほどを知り、 「自分のようなつまらないものは、とてもお浄土には行けないのでは」と心配している人にも、 阿弥陀さまの本願は、善人か悪人か、また心 が浄らかで あるかないかというような、わけへだてをしないで、 すべて救ってくださるということを説き聞かせることこそ、学問をする者のつとめでしょう。

 それにもかかわらず、たまたま阿弥陀さまのお救いを素直に信じて念仏する人に、 「経典をよく勉強しなければ救われない」などといっておどすのは、念仏の教えをさまたげる悪魔であり、 仏さまに敵対するもののすることです。そのような人は、自分自身に他力の信心が欠けているだけでなく、 あやまって他の人をも迷わすものです。

 このように、浄土に生まれるためには学問が必要であると説くことは、それほ親鸞聖人のお心に そむくことですので、そのような発言は固くつつしむべきです。これはまた、阿弥陀さまの本願に そむくことにもなり、悲しむべきことです。


  • 第十二条 原 文
 経 釈をよみ、学せざるともが ら、往 生不定のよしのこと。この条、すこぶ る不足言 の義といひつべし。

 他力真実のむねをあかせる、もろもろの 正教は、 本願を信じ、念仏をまふさば、仏になる。そのほか、 なにの学問かは、往生の要なるべきや。まことに、このことはりにまよへらんひとは、いかにもいかにも、 学問して、本願のむねをしるベきなり。経釈をよみ、学すといへども、聖教の本意をこころえざる条、 もつとも不便のことなり。

 一文不通にして、経釈のゆくぢもしらざらんひとの、となへやすからんための名号におはしますゆへ に、易行とい ふ。学問をむねとする は、聖道門な り。難行となづく。 あやまつて、学問し て、名聞・ 利養のおもひ住するひ と、順次の 往生いかがあらんずらんといふ証文もさふらうべきや。

 当時、専修念仏のひとと聖道門のひと、法論をくわだてて、「わが宗こそすぐれたれ、ひとの宗は おとりなり」といふはどに、法敵も いできたり、謗 法もおこる。これしかしながら、みづから、わが法 を破謗するにあらずや。

 たとひ、諸門こぞりて、 「念仏はかひなきひとのためなり。その宗あさし、いやし」といふとも、 さらにあらそはずして、「われらがごと く、下根 の凡夫、一文不通のものの、信ずればたすかるよし、 うけたまはりて信じさふらへば、 さらに、上根の ひとのためには、いやしくとも、われらがためには、最上の法にてまします。 たとひ、自余の教法す ぐれたりとも、みずからがためには、器 量およばざれば、つとめがたし。われもひとも生死をほなれんことこそ、諸仏 の御本意に ておはしませば、御さまたげあるべからず」 とて、にくひ気せ ずは、たれのひとかあり て、あだを なすべきや。 かつは、じやう論 (言偏に争う論)のところには、もろもろの煩悩おこ る。>智者遠離す べきよしの証文さふらふにこそ。

 故聖人のおほせには、「この法をば信ずる衆生もあり、そしる衆生もあるべしと、 仏ときおかせたまひたることなれば、われはすでに信じたてまつる。また、ひとありてそしるにて、 仏説まことなりけりと、しられさふらう。しかれば、往生はいよいよ一定とおもひたまふなり。 あやまつて、そしるひとのさふらはざらんにこそ、いかに、信ずるひとはあれども、 そしるひとのなきやらんともおぼへさふらひぬべけれ。かくまふせばとて、かならず、 ひとにそしられんとにはあらず。仏の、かね て>信謗ともに あるべきむねをしろしめして、ひとのうたがひをあらせじと、ときおかせたまふことをまふすなり」とこそさふらひしか。  いまの世には、学文して、ひとのそしりをやめ、ひとへに、論義問答むねとせんと、 かまへられさふらうにや。学問せば、いよいよ、如来の御本意をしり、悲願の広大のむねをも存知して、 「いやしからん身にて往生はいかが」なんど、あやぶまんひとにも、本願には 善悪・浄穢なき おもむきをも、とききかせられさふらはばこ そ、学生の かひにてもさふらはめ。たまたま、なにごころもなく、 本願に相応して念仏するひとをも、「学文してこそ」なんどいひをどさるる こと、法の 魔障なり、 仏の怨敵なり。みづから、他力の信心かくるのみならず、あやまつて他をまよはさんとす。

 つつしんでおそるべし、先師の御こころにそむくことを。かねてあはれむべし、弥陀の本願にあらざることを。

  • 第十二条 要 旨
 この条にしるす異義は、「学解 往生」と称する。その主張する内容は、浄土真宗の聖教をよく学ばなければ、 浄土に生まれることはできないというのである。

 しかし、聖教には、阿弥陀仏の本願を信じて念仏するものは、かならず救われて仏になるとしるされ、 学問をせよとはいっていない。法然も「学問をして、念の心を悟りて申す念仏にも非ず」 (「一枚起請文」) といっている。

 学問をはげみ、智慧をみがいて、さとりを得ようとするのは聖道門の人の志すところである。浄土門は、 無学の愚かな凡夫が、阿弥陀仏の本願を信じて念仏するとき、学問や智慧を身につけることを 求められることもなく、むしろ無智・無学の悪人をめあてとする教えであることを強調する。