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浄土真宗の歴史に学ぶ
(仏教研修会 第356回) 2004/01/30
千葉 乗隆
『歎異抄』が語る親鸞聖人19   

  1. 『歎異抄』の第十三条 その一

  • 第十三条 現代語訳

 阿弥陀さまの本願は、どのような悪人をも救ってくださる不思議な力があるからといって、 悪いことをするのをおそれないのは、「本願ぼこり」といって、本願を誇りに思い、 それにあまえてつけあがる行為で、そのようなことをする人は浄土に生まれることは できないということについて。

 このことは、仏さまの本願を疑うことであり、また、この世における善も悪もすべて、過去における行いの 結果であるということを心得ていないからです。

 たまたま善い心がおこるのは、過去の善い行いがそうさせるのです。また、悪い心がおこるのも、過去の悪い行いによるものです。今は亡き親鸞聖人は、「 や羊の毛の先についた のような小さい罪であっても、すべて過去の行いによらないものはないのですよ」と仰せになりました。

 またあるとき、聖人が、「唯円房は、わたしのいうことを信じるか」と仰せになりました。そこで、 「はい信じます」とお答えしますと、「それではわたしのいう通りにして、決して反対しないね」と重ねて 仰せになりましたので、つつしんで承知いたしました。すると聖人は、「それでは、人を千人殺しなさい。 そうすれば、必ず浄土に生まれることができますよ」と仰せになりました。そのとき、「聖人の仰せでは ありますが、わたしのようなものには、千人はおろか一人でも殺すことなどできるとは思えません」と お答えしますと、「それでは、さきほどはどうしてこの親鸞のいうことに反対しないといったのですか」と 仰せになりました。  つづけて聖人は、「これでわかるでしょう。どのようなことでも、自分の思い通りにできるのであれば、 浄土に行くために人を千人殺せとわたしがいったときに、すぐに殺すことができるはずです。しかし、 一人の人でも殺すことができないのは、殺すべき縁がないからです。自分の心が善いから殺さないので はありません。また人を殺すつもりがなくても、縁がもよおせば、百人も千人も殺すこともあるでしょう」と 仰せになりました。

 このことは、わたしたちが、自分の心が善いのは浄土往生にはよいことであり、自分の心が悪いのは 往生のためには悪いことであると勝手に判断してしまい、わたしたちが、本願の不思議なはたらきで救って いただくことを知らないでいることを、聖人は指摘されて、このように仰せられたのでした。

 かつて、親鸞聖人がご在世のころ、誤った考えをもつ念仏者がいて、悪いことをするものを救って くださるのが阿弥陀さまの本願であるからといって、わざわざ好んで悪い行いをし、それを往生のための てだてとしなければならないなどといい、しだいに、そのよくないうわさが聞こえてきました。そのとき、 聖人がお手紙に、「いくらよく効く 解毒薬があるからといって、好んで毒を飲むようなことをしては いけませんよ」とお書きになっているのは、そのような誤った考えにとらわれることをやめさせる ためでした。しかし、悪を犯すことが往生のさまたげになるので、悪いことをやめなければ救われない ということでは決してありません。

 「戒律を守り、悪をやめ善を行う人だけが本願を信じ救われるということであれば、戒律を守れない わたしたちは、どうして迷いの世界を離れることができましょうか」と、聖人は仰せになっています。

 このようなあさましい身であっても救ってくださるのだという、阿弥陀さまの本願にあわせていただいた ゆえに、その本願の不思議な力を誇りあまえることができます。それだからといって、わざと本願に あまえて、自分にはできそうにない悪い行いをする必要もないでしょう。

 また聖人は、「海や川で網をひき、釣りをして、魚をとって暮らしをたてる人も、野や山で獣を狩り、 鳥を捕らえて生活する人も、商売をし、田畑を耕して日々を送る人も、すべての人はみな同じことです。 だれでも、そうしなければならない縁がもよおしたならば、どんな悪いことでもするものです」と仰せに なりました。  しかしこのごろは、いかにも殊勝に、来世の浄土往生を願うような格好をして、善人だけが念仏する 資格があるかのように思い、あるときは念仏者の集まる道場に張り紙をして、「このようなことをしたものは、 道場に入れてはならない」などという人がいますが、それこそ、外見にはただ賢く善い行いにはげむ かのような姿を示し、内心にはいつわりの思いをいだいているのではないでしょうか。

 阿弥陀さまの本願を誇り、それにあまえてつくる罪も、過去の多くの縁によるものです。だから、善い行いも 悪い行いも、すべては過去の縁によるものと考えて、それにとらわれることなく、ひとえに仏さまの本願力を おたのみすることが、他力ということです。

 聖覚法印が著した『唯信鈔』にも、「あなたは、阿弥陀さまがどのようなお力をもっておられるかご存知の うえで、わたしのような罪深いものは、とても救ってはくださらないだろうなどと思っておられるのですか」 といっておられます。罪深いものは救われないなどというのは、阿弥陀さまの本願の不思議なお力を 知らないものの考えることです。

 阿弥陀さまの本願の不思議なことをよく知り、その本腰を誇りあまえるような打ち解けた心がおこれば、 阿弥陀さまに身をゆだねる他力の信心も定まるというものです。

 およそ、自分のもつ悪業や煩悩をすべてなくしたあとで、本願を信ずるということであれば、本願を頼る 思いもなくてよいでしょう。しかし、煩悩をなくすることは、悟りを開き仏になるということです。そのようにして 仏になったものには、五劫という永いあいだ考えぬいてたてられた阿弥陀さまの本願は、もはや必要がなく 意味のないものとなります。

 本願に誇って悪いことをしてはいけないと、いましめられる人びともまた、煩悩をそなえた不浄の身で 悪いことをしておられると思われます。そのようなことこそ、すでにその人ご自身が本願に誇っておられる のだと思われます。そうしますと、どんな悪を本願ぼこりといい、どんな悪を本願ぼこりではないという のでしょうか。本願ぼこりはよくないというのは、かえって幼稚な考えであるといえましょう。

  • 第十三条 原文
 弥陀の本願不思議におはしませばとて、悪をおそれざるは、また、本願ぼこりとて、 往生かなふべからずといふこと。

 この条、本願をうたがふ、善悪の宿業をこころえざるなり。

 よきこころのおこるも、宿善のもよほすゆへなり。悪事のおもはれせらるるも、悪業のはからふゆへなり。 故聖人のおほせには「卯毛・羊毛のさきにいるちりばかりもつくるつみの、宿業にあらずといふことなしと しるべし」とさふらひき。

 またあるとき、「唯円房は、わがいふことをば信ずるか」と、おほせのさふらひしあひだ、「さんさふらう」と まふしさふらひしかば、「さらば、いはんことたがふまじきか」と、かさねておほせのさふらひしあひだ、 つつしんで領状まふしてさふらひしかば、「たとへば、ひと千人ころしてんや、しからば往生は一定すべし」と おほせさふらひしとき、「おほせにてはさふらへども、一人も、この身の器量にては、ころしつぺしとも おぼへずさふらう」とまふしてさふらひしかば、「さては、いかに親鸞がいふことをたがふまじきとはいふぞ」と。 「これにてしるべし、なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといはんに、 すなはちころすべし。しかれども、一人にても、かなひぬべき業縁なきによりて、害せざるなり。 わがこころのよくて、ころさぬにはあらず、また害せじとおもふとも、百人・千人をころすこともあるべし」と おほせのさふらひしかば、われらが、こころのよきをばよしとおもひ、あしきことをばあしとおもひて、 願の不思議にてたすけたまふといふことをしらざることを、おほせのさふらひしなり。

 そのかみ邪見におちたるひとあつて、悪をつくりたるものをたすけんといふ願にてましませばとて、 わざとこのみて悪をつくりて、往生の業とすべきよしをいひて、やうやうに、あしざまなることの きこへさふらひしとき、御消息に、「くすりあればとて、毒をこのむべからず」とあそばされてさふらふは、 かの邪執をやめんがためなり。まつたく、悪は往生のさはりたるべしとにはあらず。持戒・持律にてのみ 本願を信ずべくは、われら、いかでか、生死をはなるべきやと。かかるあさましき身も、本願に あひたてまつりてこそ、げにほこられさふらへ。さればとて、身にそなへざらん悪業は、 よもつくられさふらはじものを。

 また、「うみ・かわに、あみをひき、つりをして、世をわたるものも、野やまにししをかり、とりをとりて、 いのちをつぐともがらも、あきなゐをし、田島をつくりてすぐるひとも、ただおなじことなり」と。「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」 とこそ、聖人はおほせさふらひしに、当時は後世者ぶりして、よからんものばかり念仏まふすべきやうに、 あるひは道場わりぶみをして、なむなむのことしたらんものをば、 道場へいるべからずなんどといふこと、ひとへに、賢善精進をほかにしめして、うちには虚仮をいだけるものか。  願にほこりてつくらんつみも、宿業のもよほすゆへなり。されば、よきことも、あしきことも、業報に さしまかせて、ひとへに、本願をたのみまひらすればこそ、他力にてはさふらへ。『唯信抄』にも、 「弥陀、いかばかりのちからましますとしりてか、罪業のみなれば、すくはれがたしとおもふべ き」とさふらうぞかし。本願にほこるこころのあらんにつけてこそ、他力をたのむ信心も決定しぬべきことにてさふらへ。

 おほよそ、悪業・煩悩を断じつくしてのち、本願を信ぜんのみぞ、願にほこるおもひもなくてよかる べきに、煩悩を断じなば、すなはち、仏になり、仏のためには、五劫思惟の願、その詮なくやましまさん。

 本願ぼこりといましめらるるひとびとも、煩悩・不浄具足せられてこそさふらうげなれ、それは願 ほこらるるにあらずや。いかなる悪を本願ぽこりといふ、いかなる悪かほこらぬにてさふらうべきぞや。 かへりて、こころをさなきことか。

  • 第十三条 要旨
 この条にしるす異義は、「怖畏罪悪」と称する。弥 陀の本願は、いかに罪深いものであろう とも救いとるとい う不思議な力があるからといって、罪悪をおそれないのは、 「本願ぼこり」といって、 本願を誇りに思い、それにあま え、つけあがる行為で、そのようなことをする人は浄土に 往生で きないという。この異義は、「専修賢善」の異義から派生したものである。専修賢善を主張する人は、 つぎのように考えた。

 もともと、親鸞の教えは、念仏以外の戒行を否定し、阿弥陀仏の救いを信じて、ただひとえに念仏 することによって救われる道であった。しかし、このただ念仏だけに満足せず、善い行いをして念仏 のたすけにしようと考えたり、念仏を多くとなえて、その功徳によって浄土に生まれることを 願うというのであった。

 この第十三粂では、専修賢善の人びとの、念仏に自力の善を加える考え方を批判し、善悪をこえて 救う阿弥陀仏の本願のはからいにまかせることをすすめている。

 人は善い行いをしょうと思えばできるし、悪事をはたらこうと思えば、これもできるというのではなく、 すべてはさまざまな縁によるものである。このように思いのままにならぬわが身を、そのまままかせよと いう阿弥陀仏の本願力をたのみたてまつる以外に、てだてのないことを説き明かしている。