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浄土真宗の歴史に学ぶ
(仏教研修会 第359回) 2004/04/25
千葉 乗隆
『歎異抄』が語る親鸞聖人22   

  1. 『歎異抄』の第十四条

  • 第十四条 現代語訳

 ただ一声の念仏であっても、八十億劫という永いあいだ迷いの世界に苦しみつづけるほ どの重い罪が消えるという、念仏滅罪の異義について。

 このことについて、『観無量寿経』の中に、十悪や五逆などの重大な罪を犯し、しかも 日ごろ念仏をとなえることなく、臨終のときにはじめて善知識(念仏の教えを説き導く人) の教えをうけた人でも、ただ一声の念仏によって、八十億劫もの永いあいだ苦しまなけれ ばならないほどの重い罪が消え、十声念仏すればその十倍もの重い罪が消えて、浄土に往 生することができると説いています。

 これは十悪や五逆が、どれほど重大な罪であるかを知らせるために、一声の念仏で八十 億劫、十声の念仏で八百億劫の罪が消えるということを説明したわけで、念仏することに よって、罪を消す利益があることをいったものです。

 しかし、こうした念仏を罪ほろぼしの行にするという「念仏滅罪」の考え方は、わたし たちの信ずる他力の信心ではありません。  なぜかというと、わたしたちは阿弥陀さまの光明に照らされて、その本願を信じる心が はじめておこるとき、決してこわれることのない信心をいただくのですから、そのとき、 わたしを、浄土に生まれることが決まった人びとの仲間に入れさせてくださるのです。だ から、この世のいのちが終わったならば、わたしがこの世でつくった煩悩や罪悪の障りを 転じて、仏にならせていただけるのです。もしこの阿弥陀さまの大いなる慈悲の心がなか ったなら、わたしたちのようなあさましい罪深いものが、どうして迷いの世界からのがれ ることができることだろうと思い、一生の間となえる念仏は、みなすべて阿弥陀さまの大 いなる慈悲とお徳に感謝するものでなければなりません。

 念仏するたびに罪を消すことができると信じるのは、それは自分の力で罪を消して浄土 に生まれようとすることに他なりません。もしそうであれば、一生の間に心に思うことは、 みなことごとく自分を迷いの世界につなぎとめるものでしかありませんので、命の尽きる まで、おこたりなく、たえず念仏しつづけて、はじめて浄土に生まれることになります。

 しかし、わたしたちは過去の多くの縁によって、自分の思うようには生きられませんの で、どのような思いがけない出来事にあうか知れませんし、また病気の苦痛にせめられて、 心やすらかになれないまま命を終えることになるかも知れません。そのようなときに念仏 することは、とてもできません。その念仏を中断している間につくる罪は、どのようにし て消したらよいのでしょうか。罪が消えないのだから、浄土に往生することはできないと いうのでしょうか。

 しかし、すべてのいのちあるものを、光の中にめとって決して捨てないという阿弥陀 さまの本願を信じておまかせすれば、どのような思いがけないことがあって、罪を犯し、 念仏することなく命がおわろうとも、速やかに浄土に生まれることができます。また臨終 に念仏することができたとしても、その念仏は、いままさに浄土に生まれてさとりを開く その時が近づくにしたがって、いよいよ阿弥陀さまにおまかせして、そのご恩を感謝する ための念仏なのです。念仏をとなえて、その功徳で罪を消そうとする自力にとらわれた人 は、臨終に阿弥陀さまを念じて心静かに浄土に生まれることを願うという考えにもとづく ものですから、それは、すべてを阿弥陀さまにおまかせするという他力の信心ではないと いうことです。
  • 第十四条 原文

  一念八十億劫の重罪すと信ずべしといふこと。

 この条は、十悪・五逆の罪人、日ごろ、念仏をまふさずし て、命終のとき、はじめて、善知識のをしへにて、一念まふ せば、八十億劫のつみを滅し、十念まふせば、十八十億劫の 重罪を滅して、往生すといへり。これは十悪・五逆の軽重を しらせんがために、一念・十念といへるか。滅罪の利益なり。 いまだ、われらが信ずるところにおよばず。

 そのゆへは、弥陀の光明にてらされまひらするゆへに、一念発起するとき、金剛の信心をたまはりぬれば、すでに、定聚のくらゐにおさめしめたまひて、命終すれば、もろもろの 煩悩・悪障を転じて、無生忍をさとらしめたまふなり。この 悲願ましまさずは、かかるあさましき罪人、いかでか、生死を解脱すべきとおもひて、一生のあひだ、まふすところの念 仏は、みな、ことごとく、如来大悲の恩を報じ、徳を謝すと おもふべきなり。

 念仏まふさんごとに、つみをほろぼさんと信ぜんは、すで に、われとつみをけして、往生せんとはげむにてこそさふら うなれ。もししからば、一生のあひだ、おもひとおもふこと、 みな、生死のきづなにあらざることなければ、いのちつきん まで念仏退転せずして、往生すべし。ただし、業報かぎりあ ることなれば、いかなる不思議のことにもあひ、また、病悩 苦痛をせめて正念に住せずしてをはらん、念仏まふすこと かたし。そのあひだのつみをば、いかがして滅すべきや。つ みきえざれば、往生はかなふべからざるか。

 摂取不捨の願をたのみたてまつらば、いかなる不思議あり て、罪業をおかし、念仏まふさずしてをはるとも、すみやか に往生をとぐべし。また、念仏のまふされんも、ただいま、 さとりをひらかんずるのちかづくにしたがひても、いよい よ、弥陀をたのみ、御恩を報じたてまつるにてこそさふらは め。

 つみを滅せんとおもはんは、自力のこころにして、臨終正 念といのるひとの本意なれば、他力の信心なきにてさふらう なり。 注釈
 十悪・五逆の罪人:十悪は殺生 (せっしょう/生きものを殺す)・倫盗 (ちゅうとう/ぬすみ)・ 邪淫(じゃいん/よこしまな男女関係)・妄語(もうご/うそ)・両舌(りょうぜつ/二枚舌)・ 悪口(あっく/悪口をいう)・綺語(きご/かざり言葉)・貪欲 (どんよく/むさぼり)・ 瞋恚 (しんに/いかり)・愚癡 (ぐち/おろかさ) の十種の悪。

 五逆は五つの悪逆な行為で、一に父を殺すこと、二に母を殺すこと、 三に阿羅漢(あらかん/聖者)を殺すこと、四に仏陀を傷つけること、五に僧が仲よくすること を破り教団の平安をきずつけること。

  • 第十四条 要旨

 この条にしるす異義は、「念仏滅罪と称し、一声 の念仏には、八十億劫という永いあいだ、迷いの世界を流 転しなければならないような重い罪を消し去る功徳がある と信じなければならないと説いている。

 こうした考えは、念仏のもつ功徳を功利的に評価するも ので、念仏をとなえて、罪障を消滅して浄土に生まれよう とする自力の念仏におちいり、他力の念仏にそむくことに なる。

 阿弥陀仏の摂取不捨の願をたのむものは、本願を信じた ときに浄土に生まれることが定まるので、それ以後の念仏 は、みなことごとく仏恩を報ずるものであることを強調し、 自力の念仏におちいらないよういましめている。

 この念仏滅罪の異義は、前条の怖畏罪悪と同じく、専修 賢善の流派に属する。